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彼の音を聴くのが好きだった。どう願ってももう聴けないその音を、私はいつも思い出す。アンプを通さない、家でしか出さないその六弦の音が好きだった。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
志恩がそう言って私を見ていた。二人の寝室で、ベッドに座りながら。
「なに、急に」
私はぽかんとして志恩の方を向く。彼は時々、脈絡もなく言葉を発する。
「いや、小百合の名前に百合が入ってるだろ。それで思ったんだけど」
「うん」
「……真逆だな、と」
「失礼だね」
志恩はよく私を揶揄う。そう言って楽しんでいるだけで、どこまで本気でものを言っているのかは分からないのが彼のらしさでもある。そういう志恩を私は嫌いじゃないな、と思っていた。
「ねぇ」
言おうか言わまいか、いつも迷う言葉を私は口に出そうとしていた。
「小百合さ、今日の晩ごはん何?」
私の「ねぇ」とほぼ同時に志恩がそう言う。
「あー……、ハンバーグ」
「やった」
タイミングを逃して私の言葉は宙をさまよった。たぶん、志恩は気付いているのだ。私が言おうとしていることを。いつも口にしようとしては躊躇っていることを。
志恩が三十歳を迎えたとき、彼は人生の中で一番大切にしていたギターをやめた。プロになると信じて疑わなかった彼が、ついにこれではプロになれないと血を吐くように辞めた夜。私は最後に彼が作った曲を聴かせてもらった。元々、他人の曲をほとんど弾いてこなかったという彼は、自作の曲を山ほど所有していた。その中でも、私が一番好きな曲。
志恩の指が、弦を抑える。エレキギターはアンプを通さないと、アコースティックギターよりも遥かに音が静かなのだ。楽器不可の賃貸でも、けしてクレームのこないその音。私は、そちらの方が好きだった。
「これ弾いたらもう本当にやめるから」
そう言って弾き始めた。
弦を滑る指。弾かれるその音は程よく甘くて、私は酔いしれる。ロックギタリストだった彼の、数少ないバラード。弦を押し上げるその指に合わせて、音がのびる。半音上がるその音色が、甘さを増していく。
ジャージャッジャー、チャラララーラ、ジャージャッジャーン
独特のテンポで流れるその音が、部屋の空気を静かに震わせる。それは時に情緒的で時に扇情的で私は軽く身震いをする。サビに入るとすこし激しくなって、まるで男女が激しく愛し合うさまを想像させられる。この人は、この曲を作ったとき、どんな恋をしていたのだろう。私よりも、激しく愛し合っていたのだろうか。それとも、狂いそうなほどの片思いをしていたのだろうか。
背が高いせいか、手も大きく、指は太い。その指が、滑るように弦を流れていく。ネックを滑るその大きな手と、器用に動く指先。彼がプロを諦めた夜。それは彼がギターを手放した夜でもあった。
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