1話・最初の会話

1/4
前へ
/37ページ
次へ

1話・最初の会話

 焼きたてのパンが欲しくなるよね。  さみだれの合間に暖められた芝生から香ばしい陽の匂いがして思った。だけれど買いに行く気はしない。どこからか呼ぶ百舌鳥の声に関心がないし、ベンチを染める夕焼けで感傷に浸るため訪れたわけでもない。この公園でよく会う男性を待っている。  遊歩道を柵に沿って歩けば、公園の前に並ぶ木魔王が風に葉を揺らせ、波音のしらべにも聞こえる。  肩まである、やわらかめで量の多い髪を両手ですくい、耳の後ろへやると、額に短いのがぱらつく。視線を落として、抜け毛でもないか胸元を右手で軽くはたいた。左のポケットに白く縫い込まれた、レジ担当、川島美咲(カワジマミサキ)と町のスーパー『憩』の文字が左斜めからの夕日を受けて赤らむ。  左右に分かれた砂利の上をゆったり折り返す、小柄だが豊かな容姿の美咲。浅緑色の制服は、膝小僧へ裾のかかるスカートに薄い生地のベスト。スーパーマーケットの店員にみえないけれど、二十年前、店の事務員が中心となって一緒に作ったという。当時は経理担当もレジを受け持ったりする小規模の店だったらしい。友達でもある同僚が、いけてない、と言うように洒落たデザインと思えない。もっとも今のところ制服で不利益を受けてないし、拘らないたちだ。  やがて、荒い目の金網に蔓薔薇を絡ませた柵から、生成りジーンズと空色のTシャツが見え隠れする。犬を散歩させる足運びに弾力性があり、背筋は真っ直ぐ伸ばしていた。花道を行く歌舞伎役者にも似ている。待っていた男性の登場に、身体も浮くほど心がはしゃぐ。  彼は今年の春から町の銀行に勤めている。名前が佐藤憲治(サトウケンジ)、貸付のネームプレートで覚えた。新しい通帳に繰り越すため銀行へ行ったとき、ふらつきながら歩く高齢の方に手を貸し、座らせていた。奥のデスクで、小太りの上司と思われる男性が、席を外してそこまですることもない、と言いたいように視線を向ける。それでも、憲治が信念を通す男性に思えた。現金自動支払機で引き出しや振込みするたびに中を窺い、彼の誠実なところや真面目さを感じた。  美咲は見計らって入り口近くまで来ていた。憲治の顔が早く見たい。焼きたてのパンならいつでも買える。偶然にこの公園でみかけて、待ってでも会いたいと、いつも立ち寄る。公園の入り口あたりだけを散歩みたいに往復するのも、知らずにしていた。  憲治は公園への自動車進入防止ポールを避けて遊歩道に、白いウォーキングシューズで踏み込む。短く刈り込みルーズに分けた髪、濃い眉と切れ長の目を夕焼けが素直に染めた。 「こんにちは」  彼女が先に挨拶した。それを始めて三回目、自然に言えた。今年成人式を迎えて、男性との付き合いに初心でもないし、意識しすぎない術も心得ている。それでも最初は、口の中で言葉は転がり潰れてしまい、相手にちょっと視線を向けられただけ。気軽に男性へ声をかけるほど社交的でもないけれど、どうしても彼と会話がしたい。親しくなりたい思いが行動的にさせている。 「よく会うな」  彼がはっきりした発音とたっぷりの声量で挨拶をかえし、左手をあげて笑う。  見上げたところに彼の顔。身体を屈めて、知り合いだ、との思いが伝わってくる表情をしている。 (覚えてくれてる)  心で呟き頬が緩む。彼の目に映っていると考えただけで、身体が熱くなる。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加