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昼は雨が降ったけれど公園へ向かう歩道はとっくに乾いて、生け垣の所々に水溜りが残る。梅雨明けまじかなのだろう、西日も夏の陽射しに近い。
目魔王並木から入ると、すでに犬を走らせては呼び寄せる、黄色いシャツ姿の憲治。
(間に合った)
安心して思う。まず呼吸を整える。来る途中に会ってしまわないかと内心穏やかでなく、急ぎ足しながら呼吸も乱していた。
「お休みですか」
彼から気づいて声をかける。痴漢対策と、事情を詳しくは喋られない。
「たまには、ね」
ごまかしながらベンチへ座る。彼も近くに来て犬へ合図する。一昨日より気持ちも落ち着いて、なにか話せそうだ。犬から話題を離したい。
「お日さまにあったまった匂いが好いね。焼きたてパンみたい」
湿り気の残る芝生は草原の香りに近いが、ベーカリーの軒先を思いだしてしまう。
「ぼくはパンをあまり食べないから」
わからないというように首を捻る。雨の後から漂う豊潤な空気と、立ち上る芳ばしい芝生の声を感じられないらしい。性格のおおらかさ、と好ましく思う。これから親密になることへ支障とはならない。
「この公園が好きみたいだな」
彼は言うと隣へ座った。すすんで、お喋りしようとの姿勢も窺える。
この前より近い距離と美咲は楽しくなった。共通の話題があればもっとわかり合えるだろう。
前に佳子からアドバイスされたことを試すときだ。
「なにかスポーツをなさってたのですか」
見ためや、話し方で予想できる。まず自分のことから。
「私は陸上部でした」
憲治が以外だとの顔を向ける。真剣に聞いてくれていると嬉しくなる。
「なにが、お得意でした」
みつめながら訊く。
「マラソン」
知らずに自慢する表情も出る。
「持久力は学年で一番だったし、駅伝で区間賞ももらった」
微かに残る挫折感はあるが、確かな事実だ。
「その。まっ」
憲治は前へ向いてなにか打ち消すように、顎を少し上げてから下ろす。
「目立つ子だったんだな」
学校で人気のある生徒だと考えたみたいだ。
「そうでもないけど。地味なの、皆と遊ぶのは下手」
そのようにみえない、と彼が今日は話に受身の体勢で身体を美咲へ向ける。それなら滑らかに言葉も出る。自分の中にもお喋りになれる部分があると気づく。
話題へできないこともある。陸上部へ入るまでは、派手な服で町中をうろつき、コンビニやショッピングセンターなどで屯していた。だけれど、流行の服とか合う体型でもないし、遊びへ本気に興じる性格じゃないとわかってきた。異性が絡んで、雄と雌の匂いを発するのも、虚ろなせつなさしか感じなかった。引っ込み思案なところも仲間から、意地や勇気がないと言われた。
中学時代一緒に部活動していた友達が誘うから、奈美に言われたときとは考えも変わって、意地や勇気を走ることで見せようと思った。遊びに新鮮さを感じなくなり、兄の結婚話も高校生活をけだるくさせていた。自分を変えたいと、気持ちは高ぶっていた時期でもある。
スタートが遅いのね、と憲治へ昔話をする。体育の授業以外に短距離を走ったことはない。
「ぼくは野球でした。良いですよ、ベースボールは」
横文字言葉を並べて語りだす。彼が夢中になるのは犬だけでもない。野球に詳しくもない美咲。サッカーなら、同級生などからルールも教えられた。
「サッカーも良いよね」
だが、もろに不満顔で返す憲治。口角を下げ、首を横に振る。
「おとななら野球だよ」
胸を張り言い切る。自分の選んだものが一番らしい。別々のボールで、その楽しみかたも違うはずだけれど、議論するつもりはない。いいほうに考える。
「信念を持ってらっしゃるのね」
最初会ったときの情景が頭に浮かぶ。彼の善さだと思う。不機嫌な顔も、彼が感情を出すぐらい親しく思っているとしか考えられない。
知らない話ばかりでは、それに笑顔で受け答えするのもつまらない。
(私服のわけを話そう。送ってもらえるかもしれない)
寄り添う姿が瞼に映る。
彼が話す言葉の切れ目に割り込む。
「私服なのはね。痴漢が出るって噂を聞いたから」
「困ったものだ」
彼は正義感も強そうに、荒く息を吸ってから吐く。
「女が悪い。隙があるからだよ」
なぜと言いたくなる発言。顔を向ければ、澄んだ目に卑しさはない。言葉を選んで、女性の立場として言いたい。
「悪い人は、油断させると思う。そこを狙うんだよ、きっと」
女の甘えだ、と彼はきっぱりした口調も変わらない。
「男が破廉恥な行為に走るのは、女が誘うようなことをするからだ」
勝手な言い分と感じる。相手がだれでも、女性として譲れない部分がある。ちゃんと目をみつめて言う。
「それは、少し違うと思います」
「同じだ。素肌を簡単に見せるものではない」
憲治は自身を持ったいつもの調子。ひとつづつの言葉に一理はあるが、痴漢への見解と思えない。真面目を通りすぎて、頭が固いと考える。
「そうですね」
この話は終わりにしたい。彼の女性観として受け止めた。
男性というのがわからない。前の恋人も不可解だった。交際してくれと、あれほど頼んでおきながら、美咲のほうから惚れているように振る舞い、命令口調にもなる。付き合ったらこうなるものか、と失望した。
遊びでつかの間の交流が男性は優しくて気前も良い。しかし、即席料理みたいな手軽さで仲良くなるのは、満たされない思いが残るだけと気づいていた。包容力を男性に求める思いもでてきたけれど、それは憲治と会ってからなのか、その気持ちが彼に会わせたのか、美咲にはわからない。
犬の話題で、この場を和ませたい。ペロへ視線を流す。
「私も気をつけるわ。ペロは、元気してた」
彼もすぐに頬が緩み、目じりを下げる。
「朝は雨で寂しがっていたが、晴れたから喜んでいる」
散歩を生きがいとするペロは水が一番の苦手だと、しょんぼりした犬の表情を教える。雨の日は会えない事情を知り、憲治の私生活を覗いた気がする。ペット中心の心豊かな男性として彼を受け止めて、いつか、その部屋へ訪れることもあるだろうか。犬に慣れるかはわからないけれど、好きなことを話す彼が見たいし、乗り越えるべき問題だ。
犬のことで話も弾む。やがて、憲治が立ち上がる。
「次は制服で会いたいな。働く女は、生き生きしている」
制服をなにかの象徴と思っているらしいけれど、美咲としては、彼に褒められた気もする。名残惜しいが腰を浮かした。
「じゃ、そうします」
立ち上がり、スカートを軽くはたいて服を調える。いつまでも話していて構わないし、切り上げ時は相手に任せたかった。
「楽しかったよ」
拍手を求めてくる。自然に右手を差し出していた。憲治の手は手袋みたいだが、ふわり、と絹でも被せるように柔らかく握る。
(指先が熱くなるわ。汗をかきそう)
内心焦る。緊張で滲み出て生ぬるく、ぬめぬめ、したら、彼も嫌がるはず。照れ笑いして俯いた。
着替えて来ることをやめようと思う。制服姿で、会いたいと、憲治が言ったのだ。それを無視してまで、いつ現れるかわからない痴漢対策なんて意味もない。
(次に会う約束なのよね)
擬似デートだと決め込んだ。有頂天になる気持ちは抑えても湧いてくる。理想として、別の場所でゆっくりしたい。しかし、彼の性格に思い込みの強い部分があるように感じた。ちょっとした言い合いが、親密になった証拠と思いながらも、もっと理解すべきところが増えた。本格的なデートをするのはまだ先かもしれない。
彼が去って、ちゃんと遠回りすることも忘れていない。一緒に行くのは理由を訊かれそうだし、痴漢の話を繰り返す気もない。間をおいて、公園をあとにした。
☆
雨やほかの利用者に邪魔されながらも公園で会う日は続く。別の場所で会いたいと、まだ言えない。男性から誘う、と佳子が経験で教えたことも心に残っている。いつまでも進展しないのに、一緒に会って話してあげる、と世話焼きな友達でもある。
(憲治さんは相変わらず自分のことばかり、話すけれど、女の子と付き合いなれてないのだわ)
それを感じ取るほど男心も知らないが、肝心なところならなんとなくわかった。恋人や奥さんの存在が気がかりだったけれど、ペロの世話とかを、一人でしているようだ。犬ばかり構うから恋人もいない、と冗談みたいに言っていたが、それを信じたい。
梅雨が明けると太陽は大気を焦げたにおいへ変える。蝉が木魔王並木でなにかを急かすように騒ぐ。変わる季節、変わる関係、変わる心は嫌だと思う。
そして、この時期ではお馴染みの、台風が近づく。
4話終
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