5・彼が豹変する

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5・彼が豹変する

 黒雲が湧いては雨をまき散らかし続けて、風も強くなり三日すぎた。台風は近づいたまま停滞しているらしい。それでも公園へ行くが、予想通り憲治は来ない。犬の散歩目的だから、ぺロが嫌だと後退りすれば出かけないだろう。  ちょっと小降りになればいまから来るかも、と期待するが、痴漢のことも気になり、暗くなる前に立ち去る。 それも最後と思わせる、台風が動きだした。会いたい思いが、自分らしくない決断をさせる。 (誘ってくれるような、きっかけを作るんだ)  女性から誘うのはあらぬ勘違いもされるし、その経験がある。それで、佳子から聞いた、レストランに併設されたビヤガーデンの話を持ち出せば、行こうと言ってくれるかもしれない。ただ、すぐには切り出せない。なにか憲治が耳を傾ける話題も必要だ。  けむたいだけの正樹が良いタイミングで、ペットフードのコーナーを広げる、といつもの休憩時間に言う。嵐のあとで良いことがある、と考えながら公園へ急いだ。  台風に千切られた蔓薔薇は憲治と出会ったのが昔みたいに感じさせる。木魔王も入り口に近い枝が歩道へ垂れ下がる。それを避けて遊歩道にすすんだ。 やがて、いつものように憲治はぺロを連れてくる。淡い緑のシャツに、お揃い、と気持ちが和む。同じスタイルでもないし、大衆相手の服なら色も限られるだろうが、彼と共通するものはなんでも心を浮き浮きさせる。 「久しぶり」  挨拶すると、輪唱するように同じ言葉が戻ってくる。ぺロも賢くて、ベンチへ行こうと綱を引く。あとを二人で追うのがお決まりの型にもなっている。   犬とじゃれあう、もうひとつの効用に気づいてもきた。彼の膝に乗るペロの脇腹を左手で触れると湿った毛が脈打つ。苦手だけれど、向かい合う格好になり、この密着感が増したのが気にいっている。撫で方はおざなりになるのも仕方ない。 「犬はあまり餌を食べないみたいね」  乏しい知識で、ぺットに勉強をしているとみせる。  人間でも食べすぎが多い、と憲治は機嫌も良い。 「犬は決まった時間の運動と食事が大切なんだ」  うなずく美咲。話下手なわりに、いい展開だと思う。 「缶詰とかドライだとか、一杯あるよね。私の店でも色々揃えるみたい」  興味を持って見に来ないか、期待する。  彼は、そうか、と軽くうなづく。 「輸入品だよ」  ペロの首を掻きながら話す。 「ちゃんとしたのを食べさせないと、かわいそうだからな」  そうなんだ、と言いたいけれど、彼のしなやかな筋肉の腕が指先に少し触れて、心が痙攣する。危ない病気でもない、思考の麻痺に近い。  脳裏で時間がないと急かす。 (彼が自分のことを話しださないうちに、席を立たない前に)  一言でも良いからと心を高揚させる。左手は引っこめて、両方の掌をベンチの縁に置いた。 「ビヤガーデンも開いたって」  前を向いて言う。言葉が足りないとも気づく。行きたいのはレストランだ。しかし、言い直したら変になると感じた。本当に話したいことを言いたくて犬から視線も外したけれど、彼がどのような顔で聞いているか、見たい気もする。 「国道近くの丘にある、タベルーレストランか」  同僚と利用したことがあると話す。見晴らしが好く、日ごろからデートコースとしても評判が良い。夏場はビヤガーデンもオープンするが、美咲は未成年で縁もなかった。ここで、ビールを話題にしようと思いつく。 「一人じゃ怖いしね。同僚たちは、近くの居酒屋が好きみたい」  肩を竦めて心細げにした。お喋りになりすぎているとわかるけれど、じゃ行かなければ、と言われないか不安だ。 「誘う友達はいないのか」  うなずいて、膝に両手を乗せて俯く。居酒屋は同僚と何回も行ったし、今年はビールも飲んでみせた。しかし、いま大切なのは和気あいあいとした勤め先を教えることではない。 「よかったら、今度一緒に行こう」  喜んで顔を向ければ、頼もしそうな笑顔でうなずく憲治。ここで、やったー、と嬉しがりたいけれど、まだデートをするのが怖い。それを説明すれば彼も興ざめするだろう。 あまり楽しそうにしないのを彼も気にする。「ぼくもおとなだ。安心して」 一緒に食事しただけで、自分の女みたいなことは言わない、と理解した。 「近いうちに誘ってくださいね」  相手も都合があろうし、それに合わせたい。しかし、彼が美咲の休みの日で構わないと言う。有給休暇が残っているから、前もって届ければ、その日に憲治も休めるらしい。男性の思いやりだろう。水曜日だと告げると、うなずく。 「そうだ、制服で来てくれないか」  ちょっといいにくそうな顔をした。美咲は戸惑う。あまり自慢できるものでもないし、一応デートだとの思いがある。 (かといって、なにを着けようかしら)  お洒落着が選ぶほどあるわけではない。ごてるのも嫌われそうだ。 「これでよろしければ」  微笑んでうなずいた。制服というのに抵抗もない。高校生のころは兄の結婚式も親戚の葬儀も、正式な場所はみんな制服で済ませられたし、性格にあっていた。 (今度の休みはビヤガーデンだ)  隠せない顔の緩みをペロに話しかけてごまかす。この調子で、居酒屋とか映画などを楽しみ、いつか心も打ち明けられるはず。
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