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水曜日は朝から落ち着かない。約束の四時には早いけれど、下着の吟味をする。食事するだけなのに見えないところまで拘るのも自分のためだ。着るものでと気分も変わるがどれにしよう。特別に、と買ったのが三種類ある。
輝くような白。シンプルなデザインで、男性が触れるのをためらう清楚さをみせる。面接や卒業式に着けた。次はワインカラー。おとなになるのだ、と背伸びして買った。お揃いのショーツで成人式の日は居酒屋へ出かけた。飲み会でもたまに着けたが大胆になれる。そして桜色の花模様が淡く描かれたもの。高校生のころ買った。あのころから、さほど胸は発達してないのに感謝していいのか迷う。
(合わせるのがあったかな)
高校生のころは白しかなかったのも確かだ。クローゼットを物色して小箱に気づく。前の恋人がプレゼントしたもので、趣味が悪いとそのままにしていた。
(確か、ショーツだった。そんな仲でもあったわけだけど、ねー)
喜ぶ女性もいるだろうが、当時の美咲には常識外れと思えた。小窓から見えるのはレースの濃いピンク色。
(着けられますか、と使うのを断ったけど)
その下着に罪もない。今日は出所を問題にする場面も訪れないと考えた。ほかの男性が贈った服で憲治に会うのは控えたいけれど、下着だ。深い仲になる予感もすれば、当然違うはずだが、いまはかえって女性としての自信なるとも思えた。
(しょうもない男だったけど、私の女の部分へ自信を持たせたわ)
律儀な面もあって、誕生日とかクリスマスの贈り物は欠かさなかった。それらのものは実家の押入れかどこかに紛れ込んでいるはず。捨てようと思うほどに辛い別れでもないし、どうしたの、と詮索する兄の奥さんに説明するのも面倒だから、そのままにしている。
(だけど、どうかなー)
心の奥でなにかが抵抗する。無邪気に、合うから使うというのも幼い考えのような気もしてきた。初めてのデートらしきものなら、やはりまずいだろう。 服はすでに決まっている。そうなるとパンプスでもなく、いつものスニーカーが憲治も歓迎するだろう。
(よし。まずは軽く食べよう。まだ早い)
携帯電話のデジタル表示を見れば、そろそろ午前十時。朝食もまだなのだ。ビヤガーデンでのことを色々想像して食欲は感じなかった。顔がむくんでないか、吹き出ものがないか。爪や指も確認した。髪もブラシを通したいけれど、シャワーが先だと浴びた。そうして、下着のことで迷っていたのだ。 味噌汁に少しの葉野菜を加えておかずにした。
(公園で待っていようかな。でも、汗をかきたくないし)
朝から行ってなにをするのだ、と自分でもおかしくなる。部屋でのんびりするしかない。かといって間の抜けて顔をしていては憲治に会ったとき、ちゃんとした表情へ戻せない気がする。たまに鏡を見て笑ったり、口を尖らせたり、かわいい女の子をしているか確かめた。
やっと陽が傾いてくれた。空は晴れている。乾いたアスファルト道路から陽射しが眩しく照り返す。ミンミン蝉の輪唱が木魔王並木から聞こえる。そこの入り口に四輪駆動車が停まり、隣に立って招く憲治。襟付きでライトグレーのシャツはいつもより上品にみせる。 待ったかしら、いま来たばかり、と挨拶ついでの常套句。
彼が尻のポケットから鍵を出して、助手席のドアを開ける。
「大丈夫かい。車高があるから乗りにくいだろう」
「平気よ」
脚の軽さはマラソン譲り。心も手伝い軽やかに頭から車内へ入る。犬は後部座席にもいない。留守番だろう。勝った、と胸内で喜ぶ。ペロがいなくてこそ二人っきりだ。 今日は好きな音楽など訊こうと決めていた。あまり歌の話などはしないけれど、多分聞こえる、バックグランドミュージックがきっかけになるはず。自分のことで、もっとお喋りしたいから、食事やビールは控えめになるかも、と要らぬ心配さえする。
太股を振動させてエンジンがかかり、走りだす。彼はクーラーを使わない主義らしく、西日も射して暑い。歩いて来ただけで汗の染み付いた下着が気になる。だけれど、彼の省エネドライブに反対したくない。
「窓ガラス。開けてもらえません」
運転席にしか開閉のスイッチはない。
「暑いのかい」
軽く尋ねると、微笑みをみせて開ける。物足りないが、運転席側も開けたので、思ったより風は流れる。
(自然の風が一番かも)
彼の習慣に触れて親しむのも、心をくすぐる体験だ。ビヤガーデンも食べ物はレストランで作るからおいしい。そんなに飲める雰囲気でもない。普通の会話だが、愉快な思いにさせる。
海岸通りから、レストランのある丘へ続く道と分かれる三叉路がみえる。
「アルコールも陽のあるときはよくないんだ」
夜に属する嗜好品と拘りを持っているらしい。日ごとに太陽の輝きは増して、その下でビールを楽しむのがビヤガーデンでしょう、と思うが言えない。
「レストランで待ちましょう」
クーラーにあたり、気づかれないように臭い消しを使おうと思う。彼の拘りより、体臭を汗をかいた臭いをどうにかしたい。まして憲治の前だ。会うときは一番身だしなみへ神経質になる男性。
彼は美咲の言葉も聞こえない素振りで、ハンドルを逆にまわす。昔の県道跡で、いまは低木に挟まれた筋道へ入り、脇に停めた。乾いた枯れ色をしたススキの葉が窓の近くまで伸びる。
(憲治さんも融通のきかない人だわ)
こんなときはちょっと困るが、長くいられないはず。西日が強烈に車内を暖めて、地面の熱も下から二人を茹でるように襲ってくる。陽が焼きたてパンの匂いをした季節はすぎた。
「ペロもいないから、ゆっくり話そう」
憲治が夕日に早い西日で輝く顔を向ける。賛成だけれど、直射日光が頬に熱く感じる。
「でも、お腹も空いたし」
レストランでお喋りはしたい。淀んだ空気が皮膚へ見えない布団になり覆う。ガラス窓は開いているけれど、こもる大気へ体臭や吐く息が混ざる。クーラーをつける気配もない。
「ドアを開けよう」
空気の流れも出来るし、かえって、外に出て木陰が涼しい、と提案した。
「脱いだら」
彼が簡単みたいに言う。
「嘘でしょ」
笑って受け流す。そんな冗談も言えるのは、バランスの取れた心を持つ男性だからと思う。時間があるなら、彼の退屈しない話題を出そうと考えた。
「ペロって留守番できるの」
番犬という言葉を忘れたふりで言う。だが、彼は興味を示さない。
「当然だ。それより、その制服は魅力的だ」
ハンドルに手を置き、顔を向ける。
「制服ですか」
かなり前からあるが、デザインも流行だったわけではない。佳子は美意識が許さないと、最後まで悩んでいた。仕事着でデートするわけではない、と諭したのが美咲だ。憩は社員の待遇がこのあたりで評判も好ましく、レジ部門の社員募集は、早いもの勝ちで採用されると噂もあった。 憲治は貴重な骨董品でもみるように制服を目でなぞりながら言う。
「ぼくたちは、もっと知り合うべきだよ」
左手を助手席の背もたれへ持ってくる。親しみの表現だろうが、少し左へ傾く美咲。余計暑苦しくなるのより、なにか彼はおかしいと感じた。
「そうだね。食事をしながらお話も一杯したいし」
「わかっている。女の言いわけだろう、ビヤガーデンは」
憲治が一度目を瞬かせて、唇から白い歯もこぼれる。
「えっ。ち、違うよー」
誤解しているらしい。彼が知りたいのは、性格や過去とか未来などではなくて、心でもないようだ。
五話 終
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