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それでも冷静ぶって左へ目を移す。
「夕日が見えますから」
拓けたサトウキビ畑を斜めに遠ざかる高架道路。それが向かいの丘に消え入るところへ陽は沈みかけて、オレンジ色のバナナみたい型だけ、雲間に残る。
(夕日なんて関心もないけど、待ってたなんて言えないよ)
頭で言いわけしながら、おとなしく座ってあくびをする犬へ視線は行く。赤茶色で、背中から首にかけて濃い部分もある。犬種に詳しくもない。
「チワワかしら」
有名というか、広く親しまれて平凡なのかわからないが予想する。
「五歳です。成人の日に買いました」
彼が言うと、同意でも求めるように犬へ目をやり、子犬も高いがその価値はある、と満足そうにうなずく。
美咲は左手を動かしたいけれど、少し痺れた。緊張しているのだ。繰り返し練習をしているから、と自分の心を奮いたたせる。公園に来てすぐにリハーサルもした。芝生の真ん中に置かれたベンチへ頭をめぐらせて、左手を差し出す。
「休憩しませんか」
手の甲が少し上に向いてないか、指も広がりすぎたか不安になる。バスガイドやコンパニオンみたいな優雅さは望まないが、ぎこちないと自分でも思う。 彼へ向きなおして、ふっくらした頬を引き、あどけない笑顔で構えた。大きく丸い目が瞬く。断られてもこの表情で居ようと心がける。
彼は答えるかわりにベンチへ歩みよる。犬も尻尾を振りながらついて行く。利口ですよ、と自慢して、ペットに視線を向けてから真ん中へ座った。
「五歳ですか。子供ですね」
美咲は関心があるように話しながらベンチの前へ歩く。脚が震えたけれど、ためらっていたら座る機会も逃す。ちょっと離れて左に腰を下ろした。
目の高さに型の良い耳があり、耳たぶに小さな黒子を見つけた。近すぎて息も詰まりそうで、まともに視線は向けられない。犬が芝生に戯れるのを眺める。
「人間で言えば大人です」
すぐ成犬になると憲治。寿命も短いと話す。横目で窺うと、彼は慈しみの溢れる笑顔で犬をみつめている。真剣な顔も引き締まって良いけれど、白く端正な歯並びの口元を見せるのに親しみも感じさせた。そして、優しそうなまなざしを彼女に向ける。
「そうなんですか」
答えるが、心も見透かされるみたいで、視線を犬へ移す。後ろ脚で首を掻く姿へ感想もない。今日は最高だー、と叫びたいほど頭が熱くなった。
仕事帰りの息抜きを装い二ヶ月、彼に会わない日は少ない。空梅雨模様のため昼ごろから晴れることも三日続き、二人の出会いを歓迎しているようだ。もっとなにかお喋りしたいが、口下手で男性を誘う積極性もない。
思えば、前の恋人は成り行きで付き合い始めた。別れて一年あまりたつ。 その男性とはいつまでも心が溶けあえなかった。擦れ違いや喧嘩もあるのが男女の仲らしいけれど、そういうのは一切なかった。美咲はどこかで醒めていた。付き合った唯一の収穫として、男性をみる目は出来たように感じている。憲治こそ理想に近い。ここでなにか話さなくては、と気持ちだけが前に出る
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