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画用紙を前にしていた。クレヨンの箱が上に置いたままだ。右隣の子は嬉しそうに笑いながら、睫毛までなん本か丁寧に描いてある。そして、赤い色で口元を描き始めた。目を逸らす美咲。ますます描けなくなる。花や乗り物なら、幼いなりに描けるけれど、母の日、というのを保育園に入って初めて知ったし、なにを描けばいいのかわからない。
「先生できたよ」
左隣りの子は手を挙げる。彼女が泣き顔もまだふっくらしていた保育園時代の奈美。先生が、みんなが終わるまで静かにしてなさい、と新しい画用紙を渡した。好きなのを描いてなさい、とのことだろうが、おとなしくしている子でもない。
「どんなの描いたの」
覗きこむ。答えられるはずもないし、奈美も見て納得した。
「ナッチ早いね」
ため息交じりに言う。
「お祖母ちゃんでも良いてさ」
「わかんない」
祖母の顔さえ描こうとすれば、輪郭がぼやける。
「内緒だよ」
奈美が自分の描いたのを見せる。大きな円に、口と目のあたりに、小さな円が三つ。顔になってないけれど、似顔絵の元らしきものだ。
「いいのかなー」
「ミキはお花を描いてるほうが楽しいみたい」
その言葉に少し楽しくなる。蝶やカタツムリ、それから,といくらでも描けた。
「早く終わちゃって、好きなの描こう」
奈美が急かす。いつまでも白紙では終われない。オレンジ色のクレヨンで大きく円を描き、黒いクレヨンで小さな円を中心寄りに三つ。顔にしてはハバランスが取れてないが、早くこの絵から逃れたい。
新しく渡された画用紙に赤いハイビスカスを描く。実家の隣の家に大きい花が咲く種類があり、見上げて見ていた。心にも余裕ができて、奈美が細々と描いているのを眺める。
「なんの絵」
赤いクレヨンみたいで取っ手のついたのを指差す。
「これ、口紅。ママがお出かけのときに口へ塗るんだよ」
「おいしいの」
おとなのお菓子だろうか。
「変な味。でも勝手に触ったら怒られた」
悪戯盛りでもあり、美咲も父の手帳に落書きして怒られた経験がある。
色々と説明する奈美。ひときわ大きく描かれた、二枚貝を開いた格好の絵に描き足す。
「お外で化粧するって。ナッチも映せるよ」
コンパクトの鏡のほうへ丁寧に描き込む顔は奈美自身だろう。母という存在がいかに小物を多く必要とするか、美咲はしばらく相手の話を聞いていた。
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