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しかし、彼と親しくなるために避けるわけに行かない。無理もしなければ。
「かわいいね。なんと言う名前ですか」
犬の背中に右の中指だけで触れて軽く摩る。やはり毛布や縫いぐるみと違う。指を押し戻される感じに戸惑い、次にどうしたものか迷う。
「ペロです」
彼が紹介して、彼女の前に犬の頭を持ってくる。こんな流れになるのか、と変に納得もした。期待する視線でペロが舌を覗かせる。
撫でるのも良いけれど、上手く出来るだろうか。傍で見たことはあり、掌を舐めさせていたのも思いだす。あっちが勝手にやることだから、経験のあるなしも気づかれないだろう。右の掌をペロの前に出した。
湿ってぬるい、こんにゃくみたいなのが掌でうごめく。笑顔になろうとするけれど、顔の筋肉も硬直している。無作法な動物のにおいが染み込んでくる気がして引っ込もうとする右の肘を、脇腹に押しつけて我慢した。
(この人の手や舌ならどうだろう)
想像するが、すぐに打ち消す。深い仲へなるにはもっと相手を知るべきだと、前の恋人で思いしらされた。
男性の見かけや言葉で相手に好意を持つ時期は、高校生のころに過ぎた。性格も上辺だけのことしか見せないものもいた。それで、彼らはなにを与えてくれるのか。その前に、異性へ興味を持ってからいままで、男性へなにを求めているのか、自分自身もまだ知らない。
なにか言わなければと、顔をまともに憲治へ向ける。彼は、犬をかわいがる姿に心安さも感じたのか、微笑んで彼女をみつめていた。
こんな近くで、そのような表情をされると、身体に触れたくもなる。だけれど、幼稚な高校時代とは違う。軽い女性とも思われたくない。
「わんちゃんだね」
言ってから、幼い喋り方と恥ずかしくなる。犬という、印象だけが強い。不用意に彼へ接触しないように、自分の手は引いて前に向き、指を軽く組んだ。
あたりは暗くなり外灯の明かりが照らす。高架道路の水銀灯は真珠色の連なりに変わり、目にするものすべてが煌めいていた。
「話し込んだな」
彼が立ち上がる。不満だが、仕方ない。待ち合わせたわけでもないし、上出来だ。
(あっ、名前)
自己紹介はしてないのに気づく。彼のことを知っているが、教えてもらってないのに名前で呼べない。
「私は美咲です。次もみ、見せてください」
言葉が混乱した。立ち上がりながら話したからだ。少し慌ててもいる。犬へ視線をやり、上目で憲治を窺う。変な女の子と思われなかったか心配だ。
「名前は知らなかったな」
彼が頭を掻く。子供っぽく見えたけれど、好感を持つ。名乗って、勤め先まで伝えるのは、自己紹介するときの習慣だろう。
(話しやすい人だよ)
心で呟いた。思っていたより長くお喋りもした。明日も早く来て待とう、とあらためて決める。
憲治は木魔王並木を右へ歩いて行く。歯科医院の裏壁に沿った道を左へ曲がると、ブロック塀に隠れてしまった。美咲の来た道を戻る型になり、その途中で会ってしまうときもある。これからは、すれ違うときに短い会話も出来ると思う。
一人になれば聞こえる心臓の鼓動。彼へ聞かれなかったかと感じるほど耳に響く。頬は赤くなってなかったか、不安というより恥ずかしさも出てきた。
美咲の帰り道は逆になる。公園から出て左へ歩けば、木魔王の枝がアーチを作る。行き止まりではなくて、すぐ向こうに広い駐車場。アパートが二軒、ベランダのほうを向ける。奥にあるアパートへ美咲は住んでいる。
職場も近いから自動車も使わず徒歩出勤していた。蔓薔薇で囲まれた公園が、憲治と巡り会うために用意されていたとさえ思える。
「縁か」
小さく呟いて、木魔王のアーチを潜り抜けた。
1話終
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