3話・帰り道は遠かった

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 道を戻る。職場から来た十字路はもうちょっと先へ行くとバス停があり、県道に合流する。そこからカーブを描いてスーパー憩の前へ続く。  十字路から左へ曲がれば中通り。給油所と交番の間にある坂道を下ると、店先に様々な色や型の看板が並ぶ。飲み屋通り、ともいわれて、去年まで未成年の美咲に縁もなかった。 (昼間も酔っ払いがうろつくらしいし、歩きたくないけど)  いまでも不安だが、一人で痴漢にあうよりましだ。居酒屋とかラーメン屋などは開いているけれど、スナックとかバーなどのネオンは消えて、寂しいたたずまい。黄昏てきた空に外灯がやけに明るい。  坂道から平坦なところまで来ると、右は有料駐車場に挟まれた広い道。奥のほうに『マルチプルホテル』のネオンを掲げて構える二階建てのビジネスホテル。宴会場とレストランが付け足したような貧弱さで玄関横に見える。一時滞在で泊まる方もいるが、裏手の駐車場から直接部屋に行けるのも、一度だけ利用したから知っている。関係ない場所、と見ないふりして通りすぎた。  駐車場で、バカヤロウ、と太い声。続く罵り合い。多数の者が集まっているらしい。喧嘩でも始めたのか、感情的になった荒っぽい発言が飛び交う。女性の宥める声、短い悲鳴と車体にぶつかる壊れた太鼓みたいな音。だから交番が近くにある、と納得しているときでもない。急ぎ足になるけれど、左手前で明かりが点いて、心臓は大きく打った。やがて居酒屋の提灯だと気づく。 (お仕事が始まるのよ)  自分の怖がりを厭わしく思い、少し口元を緩めて笑う。騒ぎに巻き込まれることもない、心に余裕もできた。 「お姉さん」  しわがれ声をかけられる。文字も薄れた小さな看板の下から目の前に現れたのは、赤いワンピースの女性。化粧は剥がれて、しわと肝斑が媚びて笑う目のまわりでうごめいている。五十歳は越すように思えた。 「ねえ。煙草ない」  女性が美咲をみつめて問う。充血して、焦点も合わない瞳。乾いた口からこぼれる酒の臭いが、石油みたいに美咲の鼻を刺激する。持ってません、と首を振り一歩下がる。相手は話し相手でも欲しいのか、最低さ、と呟く。 「聞いてよ。おごるから」  すがる感じで顔を向ける。そんな金があるなら煙草なんて自分で買えと言いたいが、関わるのも控えたい。 「急いでるから。ごめんなさい」  足を早めて右脇から通り抜ける。見た目は派手な服だけれど、酸っぱい臭いがした。 「なにさ。薄情女」  投げやりな台詞を背に、まだ遠い道程が気分を滅入らせる。中通りは五百メートルほどの長さで、途中カーブを作り美咲のアパートに近い地区集会所へ抜ける。気になるのはカーブあたりにある喫茶店。昼間も夜も開いていて、女の子を高い給料で何人も募集している。いやらしいことをさせている、と警察の捜査を受けたのも何回かある。そこを敬遠したいのは、働かないか勧誘する人物がいるから。しつこく口説いて、一日だけでも、と承諾させるらしい。付きまとわれて困っている、と話す知り合いもいる。中でなにをしているのやら、美咲として想像したくない。  迷う間にもネオンが点いたり、華やかな服の女性も通りすぎて行く。一層歓迎したくない事態になるはず。このあたりでは珍しい三階建ての店舗ビルの前、一番派手な場所だ。  いまはここのすべてが眠りから目覚めるころ。作り物の恋や、金と地位を求める者が群がり、捨てた怨念。その欲望が路地の影から這い出して、取り憑く相手を捜す時間。美咲に経験はないけれど、ねっとりした空気に引き込まれそう。
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