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第一章 (13) 一匹の蜂
「ムルさん。まさか、貴方は……」
ティナはムルの背に向かって呟く。彼は針を敵に向けたまま、微動だにしない。
暫し沈黙していたイミオンは、嘲笑うかの様に短く息を発した。
「ふざけたことを、何が『本物』だ! 数百年前に滅びた種族だぞ!? こんな所で生き残っている訳が」
「チャッタ」
イミオンの言葉を遮るように、ムルはチャッタの名を呼んだ。
「アルガンの怪我は」
彼の意図が分かって、チャッタは反射的に答える。
「楽観視できる状況じゃないけど、命に別状はないよ! ……ごめんね、アルガン。僕のせいで」
「謝る暇があったら……、そのお得意の頭ぶん回して、なんか良い方法でもないか、考えろよ」
二人の会話を聞いて、ムルは少し間を開け呟く。
「早めに終わらせる」
「舐めたことを……!?」
イミオンは怒りで震えながら、片手を上げる。周囲の水が、命をもった生き物のように彼の下へ集まっていった。飛沫によって、たちまちチャッタたちの視界が塞がれていく。渇いたこの国では、奇跡ような光景だった。
「ティナちゃん! こっちへ!」
チャッタは急いで、ティナを自分の近くへ呼び寄せた。
「最初から私一人で十分だったな。ノコノコ逃げ帰ってきたあの無能共が」
先程の男たちのことだろう。イミオンは苛立った様子で舌打ちをすると、指を鳴らす。
水がチャッタ達の周囲を取り囲み、あっという間に三人を覆い隠してしまった。
『これは――』
「貴様らは暫くそこにいろ」
気づけばチャッタたちは、水で造られた半円状の球体の中に閉じ込められてしまっていた。分厚い水が壁のようになっていて、触れると固く冷たい感触がする。押しても叩いてもびくともしない。
ムルがこちらに駆けつけようと、足を動かした。
「おっと、まずは貴様からだ」
イミオンが一瞬で間合いを詰め、両腕を振りかぶる。水が渦を巻き、背丈程もある両刃の長剣が出現した。イミオンはそれを掴み、一息に振り下ろす。
床の石が裂け、辺りに瓦礫が散らばった。
咄嗟に跳躍し避けたムルは、飛んできた瓦礫を針で弾き飛ばす。
その隙に、再びイミオンが剣を振るう。
顔面、首、胸元、それぞれを狙った横薙ぎの攻撃を繰り返し、最後に大きく踏み込んで突く。身体を捻り刃を避けたムルは、最後に上半身を大きく後ろに反らせ、刃を足で蹴り上げる。
その勢いで大きく弧を描き一回転したムルは、イミオンと一旦距離を取った。
「やけに身軽だな。蜂を自称するだけのことはある」
イミオンが剣を肩に担いでほくそ笑む。長剣の重さで、力任せに振り回しているだけではない。正確な攻撃だ。
ムルはイミオンに注意を払いつつも、こちらの様子を横目で確認しているようだ。
「貴様に仲間を気遣う余裕などない!!」
イミオンが再び片手を振り上げたのを見て、ムルも腰を落として針を握り直した。
チャッタはクロスボウを構え、矢を壁に向かって撃つ。元が水であれば貫通しそうなものだが、軽い音を立てて弾かれてしまった。
「駄目だ。壊せそうにないね。ムルの様子は、辛うじて見えるけど」
チャッタは水の壁越しに、歪んだムルの姿を見つめる。イミオンはアルガンを生かしたまま連れ帰りたいらしい。この場所は、チャッタたちを閉じ込めておくためのもので、危険な場所ではないようだ。不幸中の幸いか。
「チャッタさん、ムルさんが……」
ティナが不安そうに、外の様子を伺っている。イミオンの怒涛の攻撃に、ムルは防戦一方だ。こちらが人質になったせいもあるのだろう。
早々に脱出したい所だが。
「ああ、もう! 俺がやる……!」
「アルガン!? 君、無理しちゃ……」
アルガンが少しふらつきながらも立ち上がり、怪我をしていない方の腕を上げる。
「焼いて止血は、した! 足手まといは御免だし、無理でもしなきゃ、どうにもなんないだろ」
「落ち着いて! 今すぐ危険があるって訳ではなさそうだし、ここは――」
そこでチャッタは言葉を区切り、口を閉じる。もしかして、アルガンの力を借りられれば、ムルの力になれるかもしれない。
「そうだね、せっかくだし……。ちょっとだけムルを手助けしようか」
チャッタは唇に、妖しく美しい笑みを浮かべた。
ムルは針を構え地を蹴った。一直線上にいる、イミオンに向かって素早く駆ける。澄んだ音と甲高い音を立てて、金属同士がぶつかった。
「はっ! そんな細い針一本で何ができる?」
イミオンはムルの針を眺め、嘲笑を浴びせた。剣を上段から振り下ろし、針を押さえ込んでいる。
見た目よりも針は強度があるようだが、元々の重さが違いすぎる。イミオンは唇を歪めて笑った。
ムルは腕を捻り抜け出すと、間合いを取ろうと動く。
すかさずイミオンはムルに襲いかかった。剣を振り上げ、長さを生かして遠くの間合いから振り下ろす。
ムルは身体を一歩横にずらし、最低限の動きでそれを避けた。しかしそこへ、透明な色をした刃が数本飛来する。魔術だ。
再び上半身を僅かに反らせて刃を避ける。床にぶつかった途端、その刃は水に変わった。
「貴様、魔術は使えないのか? まぁ、使いたくても無理だろうがな」
イミオンは再びその水を操りながら嘲笑する。
現在、この空間の水のほとんどはイミオンの支配下にある。ムルが操れる水があるとすれば、それはせいぜい攻撃の際に散った僅かな水滴くらいだろう。
「貴様が真の水の蜂だとすれば、水を自ら生み出せるはず。やはり、本物だと言うのはハッタリか?」
馬鹿にしたように、イミオンは鼻を鳴らした。
彼は再び攻撃を繰り出す。剣と魔術でムルに反撃の隙を与えないよう、次々に攻撃を叩きこむ。ムルはかろうじてそれを避けていたが、体力が続くのも時間の問題だろう。
イミオンは勝利を確信し、歪んだ笑みを深める。
その時、何かが割れるような音がイミオンの耳に届いた。
彼が視線を向けると、水の檻の一部が大きく欠け、隙間からチャッタとアルガンが顔を覗かせていた。
「ムル! 少し下がって!」
チャッタの声に、ムルは瞬時に後方へと跳び下がる。イミオンが次の攻撃を仕掛ける前に、アルガンが動いた。人差し指をイミオンへ向け、短く叫ぶ。
「壊れろ!!」
イミオンの耳元で揺れていた、二つの宝玉が音を立てて壊れる。イミオンはそれに気づくと、自分の心臓の辺りに一瞬、視線を落とす。
「『疑似魔術器官』は破壊した! これなら……」
「――甘いっ!!」
チャッタの嬉々とした声に、イミオンが冷笑を浴びせる。これは偽物だ。本物をこのような目立つところにぶら下げておくものか。
砕けた檻も、再び集まった水によって修復されていく。これで壊せるほど甘い仕掛けではない。目障りだと、イミオンはチャッタたちの方へ片手をかざす。
その時、耳障りな音を立て、イミオンの長剣が砕け散った。
「な――なんだ……?」
長剣だった水が足下に散っていく。イミオンの足下には一本の針が突き刺さっていた。
この針は、水の蜂を名乗る男のもの。まさか、唯一の武器を飛び道具にしたのか。
「助かった」
小さな呟きに、イミオンは顔を上げてぎょっと目を剥いた。
ムルの手にもう一本針がある。もう一度確かめれば、確かに床に刺さる針は少し短かった。ムルの周囲には無数の水球が浮遊している。どこにそれだけの水が。
その疑問の答えはすぐに出た。
「破られた、檻か……!?」
あの炎の魔術を使う少年が、水の檻を破った時に散った水か。散った瞬間にイミオンの支配を逃れ自由になったそれを、目の前の男が操っているのだ。
視界の端で、チャッタが得意げに微笑むのが見える。
「手数は多い方が良いからな」
ムルが独り言のように呟く。そして一呼吸置き、深い闇色の瞳でイミオンを見据えた。
「行くか」
イミオンの目には、ムルの体が一瞬、消えたように見えた。
ムルは頭上よりも大きく跳躍すると、上から小さな水の針を飛ばす。即席で先程よりも小振りな剣を造り上げたイミオンは、それで針を弾き飛ばした。
その間に、再びムルの姿を見失う。気づくと彼は地上に降り立ち、身を低く屈めている。
彼は針を口に咥えると、両手を床に付け片足を大きく回す。床には水が溜まっていた。ムルの足によって水が蹴り上げられ、飛沫が上がる。
水飛沫が、瞬時に無数の針に変わった。
「手数ならまだ、こちらが有利だ!!」
イミオンは剣を片手に持ち返え、もう一本剣を造り出す。左手の剣で盾のように針を受けながら突進し、もう片方をムルへと振りかざした。
相手の体勢は今、不安定。攻撃を避けることはできまい。
男の体から血飛沫が舞う様子を想像し、イミオンは顔を歪めた。
「じゃあ、俺もだ」
ムルも口元の針を持ち、もう片方にも針を造り出す。左手の針で刃と平行に剣を受け、それを滑らせながら彼は前に大きく踏み込む。そして、手首を返しもう一本の針を盾代わりの刃へ突き刺した。
イミオンの刃にヒビが走る。そのままもう一歩、ムルは足を踏み出した。
刃は砕かれ、針はイミオンの体に深々と突き刺さった。
「ぐっ……」
身体の中で何かが砕けた感覚に、イミオンは小さく呻く。刺さったのは、心臓の僅か下。そこには彼の身体に埋め込まれた疑似魔術器官がある。
「魔術器官を砕いたか。しかし、私の身体にある魔術器官は一つではない! まだこれで勝ったとは——っ!?」
イミオンの心臓が大きく脈打った。
視界が回り、額には脂汗が浮き出る。徐々に手足が痺れ、彼は溜まらず膝を折った。
「魔術器官……そこにあったのか。気がつかなかった。俺、そう言うの鈍いんだ」
ムルがイミオンの体から針を抜く。
体に力が入らず、イミオンは重たい音を立ててうつ伏せに倒れた。
「ただ、心臓近くに針が刺せれば、それで良かったんだ」
「ま、まさか……、貴様……」
体を痙攣させながら、イミオンはムルを見上げる。彼は何でもないことであるように、淡々と言葉を紡いだ。
「毒があるんだ。蜂だからな」
水の蜂、それは見たこともないお伽噺の種族、だった。しかし目の前に立つのは、一匹の蜂。そう表現せざるを得ない生物に見えた。
「死ぬようなものじゃ、ないけど」
その言葉を最後に、イミオンの意識は暗転した。
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