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第一章 (5) 母の事
「もうこんな時間ですね。そう言えば、皆さんは今夜どこにお泊りですか?」
紅く沈みゆく太陽に目を留めて、ティナはそう尋ねる。話題を変えたいのだろう。
チャッタは素直に彼女の質問に答えた。
「とりあえずアルガンと合流してから、どこかに宿を取ろうかなって。まだこの町で集められる情報がありそうだしね」
冷えた風を感じて、彼は羽織ったマントを体に軽く巻きつけた。日が沈めばこの辺りは一気に冷える。
チャッタの言葉を聞くと、ティナは申し訳なさそうに眉を顰めた。
「あの、この町には宿、ないんですよ。何年か前にはあったんですけど」
「えっ……そうか、そういう町増えてるんだよね」
この砂漠で旅をするのは命懸けだ。特に近年益々水が減り、砂漠が広がってきている。
砂漠を行き来するのは一部の商人や中央から水を運んでいる者、後はたまにやってくる神官くらいで、個人的に旅をしている者などほとんどいない。大きな教会がある町ならばと思ったが、この町にも宿はないのか。
チャッタは困って髪を撫でた。誰か町の人に泊めてもらうか、もしくは一旦町を出て野宿しかないだろう。
アルガンが文句を言いそうだなと苦い顔をしていると、ティナが遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、私がお世話になってるおじさんの家で良ければ、泊まらせてもらえると思います。私もお願いしますし、おじさんたちならきっと快く了承してくれると思いますよ」
「そんな、良いの? お邪魔しても」
願ってもない申し出だが、良いのだろうか。ムルも良いのかと問うように、少し首を傾げた。
ティナは二人を安心させるように、にっこりと微笑んで見せる。
「大丈夫ですよ。三人とも何か旅のお話でも聞かせて下さい。おじさんたちもきっと喜びます」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
チャッタはムルと顔を見合わせる。
泊めてもらえたら、お礼に何か仕事でもさせてもらおう。チャッタはそう思いながら、今夜の宿の宛ができたことに安堵する。
「さあ、そうと決まれば! アルガンさんも待ってますし行きましょう!」
ティナはチャッタたちの後ろに回ると、背中を押すようにして歩き出す。
チャッタにはそんなティナの行動が、自分の顔を見られないようにするためだったように感じた。
営業を終えたはずの店内を、ランプの灯りと陽気な笑い声が明るく照らしている。
「そうですか。水の蜂の痕跡を追って、ここまで……お若いのに学者様とは素晴らしい」
「いえいえ。僕の知識などまだまだですよ」
チャッタがそう言うと、ティナの叔父が鼻の下の髭を撫でながら愉快そうに笑う。
ティナの言った通り、彼女の叔父たちはチャッタ達の宿泊を快く承諾してくれた。あっさりしすぎて、恐縮してしまったほどである。今はチャッタたちを交えて食事会の最中だ。
「アンタ! 久しぶりのお客さまだからって、はしゃいで明日の仕事に差し支えたら承知しないよ!」
恰幅の良いティナの叔母が、料理を取り分けながら眉を吊り上げた。しかし彼女も、どことなく浮かれた様子で顔を綻ばせている。
歓迎されているのは本当のようで、チャッタも顔を綻ばせた。
「それで、そのお二人も学者様ですか? また貴方以上にお若いですが」
ティナの叔父がふと、ムルとアルガンに視線を向けた。チャッタも釣られて隣に視線を移し、ぎょっと目を剥く。
「アルガン! 君、まだ食べるのか? 僕たちが合流した時も、散々飲み食いしていただろう!?」
冗談抜きで、この店の食材を全て食べ尽くすつもりか。
チャッタは料理を頬張っているアルガンに焦って声をかけた。彼は今、両手にパンを持って頬張っている。室内でもフードを取っていないため、フードの中に次々パンが吸い込まれていくという奇術のようだ。
ちなみにムルは食事を終えた後、目についた物へ触れては「お気に入り」を探している。触感至上主義とは、言ったものである。
「そうですね。この二人は、何というか……」
「戦闘員だよ。護衛的な? 旅は危険が付き物だろ」
アルガンは口の中の食べ物を綺麗に咀嚼し、飲み込んだ後に言った。
「チャッタはこの通りだからさぁ。何かとトラブルに巻き込まれて大変なんだよ。よく今まで無事だったよな、アンタ」
アルガンの指摘に、チャッタは言葉を詰まらせ視線を彷徨わせる。
自分は水の蜂のこととなると、ちょっとだけ我を忘れてしまう傾向がある、ような気がしないこともない。
「いや、まぁ、うん。言われてみればそんな気も……。でもアルガンとムルだって、よく厄介事を持ち込んでくるだろ?」
「は? アンタほどじゃないし。本当に暴走するほど大好きだよな、水の蜂」
「うん。それは否定しない」
きっぱりと言い切ったチャッタを見て、ティナや彼女の叔父たちが声を出して笑う。
「そう言えば、チャッタさんが水の蜂の謎を追うようになったきっかけって、一体何だったんですか?」
ティナにしてみれば、何と言うことはない問いかけだったはずだ。
しかし、チャッタは顔を強ばらせ、思わず黙り込んでしまった。アルガンとムルが、何かを言いたげにチャッタを一瞥する。
「そうだなぁ、最初ちょっと楽しくない話になっちゃうんだけど――僕は幼い頃、自分の母親に水の蜂の女王を演じるように強要されてきたんだ」
チャッタは少し顔を背けて目を伏せ、淡々と話を始めた。
「水の蜂の女王が生きていた! ってね、信仰の対象にして、村の人達から金品やら何やら献上させて……まあ、詐欺だよね。その時の僕は母親に言われるがまま、知りもしない水の蜂の女王を演じてた。そもそも男なのにね」
ランプの中の炎がゆらりと揺れ、彼の横顔を照らす。彫刻のような、綺麗な笑みがぼんやりと部屋の中に浮かび上がった。
「ある日、母親が一人の旅人、水の蜂の学者を連れてきたんだ。『彼女から水の蜂について学んでもっと完璧な女王を演じるように』、と言ってね。もっと多くの人を騙そうと欲が出たんだろうね」
あの、強く優しい人が自分のことを救ってくれた。
チャッタは自分を導いてくれた、大切な師匠の顔を思い浮かべる。
「僕は彼女から水の蜂についての知識を学んだ。彼女は教えがいがあると言って、嬉々として教えてくれたよ。歴史や特徴、文化、分かっている範囲のことは全て教わったと思う。それで、思ったんだ」
チャッタは顔を上げた。翡翠色の瞳がキラキラと輝き、作り物のようだった頬に赤みが差している。まるで歌うように彼は言葉を紡ぐ。
「僕は、こんな美しいものには絶対になれない、って」
ティナがハッと息を呑む。彼女はチャッタの表情に魅入られたように、じっと視線を送っていた。
「それで僕はもう嘘をつけないと母親と大喧嘩。家を飛び出して、水の蜂の学者——後の師匠に無理矢理同行させてもらうことになったんだ。そんなワケで、水の蜂にすっかり魅せられた一人の若者が誕生したと言うわけだね」
チャッタは、少しおどけたように首を傾げた。これで話はおしまいとばかり、彼は綺麗な笑みを浮かべる。
ムル以外の全員が、重々しく顔を伏せているのを見て、チャッタはしまったと焦って両手を合わせた。
「ごめんね! こんな話余計だったよね。やっぱり言わない方が良かったかな?」
「そうだよ、聞かれたからって何素直に喋ってんの? もう俺たちはその話慣れっこだけどな、周りの空気が重くなるんだよ! メシが不味くなる!」
アルガンはそう言いながらも、皿の上の料理に再び手を伸ばす。彼の食欲はどうなっているのだろうか。
しかし、彼のおかげでティナたちの緊張が少しほぐれたようだ。
「すみません、チャッタさん。私が変な質問をしてしまったから……」
「いや、僕の方こそごめんね。今までも、水の蜂を追う理由を聞かれることがあったんだ。そう言う時は、もう隠さず喋っちゃう事にしててね。懺悔、ってほどでもないんだけど」
元はと言えば、勝手に語った自分が悪い。チャッタは両手を振って謝罪した。
「でも、結果的に僕は『水の蜂の謎を追う』という目的を見つけられた訳だし、悪い思い出ばかりじゃないんだよ」
「そうですか、だったら……良かったです。私もいつかそんな風に言える日がくるのかな」
「え……」
ティナの微かな呟きが耳に入ってしまい、チャッタは思わず声を上げた。
しかしそこで、ティナの叔母が両手をパンと打ち鳴らす。
「さあ、仕切り直しと行くよ! まだまだ料理はあるから、たんと食べておくれ!」
威勢のいい彼女の言葉に、アルガンは瞳を輝かせた。チャッタはティナを一瞥し、視線を食卓に戻して笑顔を見せる。
こうして明るい食卓が戻り、店内の明かりは夜がすっかり更けてしまうまで消えることはなかった。
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