永遠の一瞬

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永遠の一瞬

 気がついたとき、私は病室にいた。まばゆいほどの光が天井から降り注ぎ、目を細める。ベッドに横になっている私の視界はぼんやりとしたままだ。私は、体を動かそうとするが、手足が重く感じられる。何かが私を押さえつけているようだった。 「ここはどこだ?」  頭の中で問いが渦巻く。記憶が断片的にしか戻ってこない。覚えているのは、手術室で麻酔が掛けられる場面だ。 「目覚めたようだね。」  不意に声が響き、私は視線を音の方向に向ける。そこには、白衣を着た中年の男が立っていた。胸にあるネームプレートから彼が医者であることがわかる。その彼は優しい笑みを浮かべながら、私に近づいてくる。 「あなたの名前は佐藤一郎。ここは研究施設だ。佐藤さんは、ある実験に参加していたが、その結果が思わぬ方向に進んでしまった。」 「実験?どんな?」 「人の主観時間に関する実験だ。」  言葉の意味がすぐには理解できなかった。主観時間?それが何を意味するのか、私の頭は混乱していた。 「例えば、誰かにとっての一秒が永遠のように感じられることがある。つまり、我々の脳が観測する時間は、物理学的な時間とは別の意味で機能している。具体的な例を挙げると、危機的状況では、周囲の音や視覚情報が極端にスローモーション化されることがある。」  中年の医者はそう言った。 「それがどうかしたんだ?」 「重要なのはここからだ。私たちの脳には、時間認識を司る特定の神経網が存在することを我々は証明した。この神経網は、脳の他の部位と同様に、シナプス結合の強さや神経伝達物質の放出量によって調整されているらしい。」 「なるほど。私はその実験に参加したということか?」 「ああ、そうだ。佐藤さんの理解が早くて助かる。」  中年の医者はそう言った。 「何が問題なんだ?ああ、私は記憶が戻っていないぞ。これが問題ということか?」 「ああ、それは一時的な健忘症だ。すぐに回復するだろう。問題は……。」  医者はそこまで話してから、何かを考えるように顔を別の方向へと向けた。そして意を決したように、再度私の方を向いてゆっくりと話し始めた。 「問題は、主観時間が、通常のそれを遥かに超えて引き伸ばされる可能性があるということだ。」  その言葉が耳に入った瞬間、私は理解が追い付かなかった。それはどういうことなのか、何が問題なのか?この記憶障害のほうが、ずっと深刻な問題ではないのか? 「主観時間が引き伸ばされるとは、どういうことなんだ?何が問題なんだ?」  医者は少し黙った後、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。 「今の佐藤さんには、何も問題が起きていないようだ。しかし、実験によってあなたの脳、その時間認識を司る神経網に対して不可逆的なダメージを与えてしまった。従って、今のあなたの脳は、時間認識に関わる機能を他の脳の部位が補完していると推測される。しかし、例えば神経伝達物質の放出量、つまり危機的な状況に陥るなどで、佐藤さんの主観時間が引き伸ばされる状況では、神経網による調整ができなくなった脳は、永久に主観時間を引き伸ばしてしまうかもしれない。それが起こった場合、どのようになるのかは誰にも分からない。最悪の場合、人格が崩壊する可能性もある。」  中年の医者はそこまで言って、ため息をついた。そしてそのあとに言葉を続けた。 「佐藤さん、あなたの脳は現在、通常の時間認識とは全く異なる状態にある。我々はこの病態を詳しく研究し、生活できるように十分な支援をする予定だ。」  私はその言葉を聞きながら、絶望的な気持ちになった。過去の自分が同意した得体の知れない実験のせいで、こんなことになっていることにやるせない気持ちを抱いた。しかし、そんな私の気持ちとは別に、現実は淡々と進んでいった。  病院での生活は、まるで時間が止まったかのように退屈だった。毎日、規則正しい食事の時間と、決まった時間に行われる検査や診察が繰り返されるだけだ。ベッドに横たわると、天井の白い壁が視界に広がる。日がな一日、その単調な景色を見つめることで、頭の中に漂う思考を少しでも紛らわせることしかできなかった。  しかし、医者たちは私を細心の注意を払って観察していた。何か異常が起きないか、常に神経を尖らせているようだった。その緊張感は、私自身にも伝わってきた。  ある日、夕方の診察が終わったあと、私は部屋の窓から外の風景を眺めていた。病院の庭には色とりどりの花が咲き誇っている。風に揺れるその光景は美しく見える。その光景を見ながらも、ふと昔のことを思い出す。大学での研究の日々や仲間たちとの楽しい時間。それらは今では遠い過去のことのように感じられる。  そんなとき、不意に地面が揺れ始めた。最初は微かな震動だったが、次第にその揺れは大きくなっていく。病院の建物全体が軋む音が耳に響く。 「地震だ!地震だ!」  誰かが廊下で叫んでいる声が聞こえる。そして、さらに地面が揺れ始めた瞬間、全身の筋肉が緊張し、背筋に冷たい汗が流れた。建物が軋む音が次第に大きくなり、崩れ落ちる恐怖が現実味を帯びてきた。私はベッドから飛び起き、揺れに抗うように立ち上がり、部屋のドアに向かって走り出そうとする。しかし、その瞬間、視界が突然変わった。すべてがスローモーションになったかのようだった。音も、動きも、すべてが異常に遅く感じられる。まるで時間が引き伸ばされているようだ。  心の中で、あの医者の言葉がよみがえる。 「主観時間が、通常のそれを遥かに超えて引き伸ばされる可能性がある。」  この現象が、それなのか?私は混乱しながらも、部屋のドアに向かって走り出した。周囲の光景がゆっくり流れていく。私は、伸ばされた主観時間を感じながらも懸命に動いて、廊下に出た。他の患者や医者たちが動こうとしている。彼らの表情は恐怖に歪んでいるが、その表情の変化すらも遅く感じられる。私はその異様な光景を眺めながら、自分の頭がどうなっているのかを必死に理解しようとした。 (落ち着け、佐藤。冷静に対処するんだ。)  自分に言い聞かせながら、ゆっくりと深呼吸をする。しかし、その深呼吸すらも遅く感じられる。どうやら、先ほどよりも時間の流れが遅くなっているのが理解できた。もはや、時間の流れが正常でないことは明らかだった。私はなんとかして、この異常な状態から抜け出さなければならない。  そのとき、遠くで崩れ落ちる建物の音が聞こえ始める。音波が空気を伝わってくるのが、まるで目に見えるように遅い。私はその音から逃げ出すように歩き出そうとする。しかし、すべてが引き伸ばされて、ゆっくりと進む。そして、その引き伸ばされた状態がどんどん加速していった。自分の身体ですら、止まったような速度で動いている。もはや、動いているのは自分の思考しかない。 (どうすればいいんだ?)  私は自分自身に問いかける。私の脳がこの異常な現象をどう処理しているのか、まったく理解できない。ただ、私がその思考をする間にも、さらに時間の流れは引き伸ばされたようで、周囲の景色は止まったようになっている。そして、自らの身体すらも、まるで岩石のように硬直して、ピクリとも動かなくなった。  もはや私は、永遠に続くかもしれないこの主観時間の中で、自分がどうなってしまうのか、恐怖とともに考え続けるしかなかった。
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