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     ◆  あの災難から一年後。  トリーシャが本棚に立てかけた梯子から下りると、真っ白な髪とひげを持つ司書長のゲイル・フォルテに声をかけられた。 「トリーシャ君、そろそろ昼休みをとってはどうかな」 「あ、すみません、司書長。もうそんな時間ですか」  たまたま返却の本が多い日で、トリーシャは広い図書室を歩き回って、元の棚に戻していたところだ。夢中になっていたせいで、懐中時計を確認していなかった。気まずさからモカブラウンの髪を指先でいじると、左耳につけた青い宝石がついたイヤリングがカシャンと揺れた。 「君は仕事熱心だが、もう少し肩の力を抜くといいよ」  ゲイルは穏やかな老人だが、今でも知識欲に旺盛だ。図書室内にある書籍はほとんどを把握しており、司書達からは知識の番人と敬われている。本を粗末に扱いさえしなければ、怒ることも滅多とない。 「君が図書室に配属されてから、そろそろ一年になるね。もし異動を希望するなら、いつでも言いなさい」 「いえ、僕はここが気に入っていますので。もしかしてお邪魔になっていますか?」 「まさか、君の働きには助かっている。ただ、ここはあまり若者に向いた職場ではないから。出会いもほとんどないからね」 「はは、出会いだなんて。そういうのは、当分はいいですよ」  トリーシャは紫紺の目をゆがめ、苦笑した。  ゲイルが心配するのは、城に勤務する者の共通認識があるのでごく自然なことなのだ。それは出会いの獲得である。王城勤務は貴族や平民の間では花形だ。王族に仕えるのは名誉であるし、出入りする高位貴族の目にとまりたいという――結婚願望を抱えている者もいる。  貴族のほとんどは婚約者がいることが多いが、様々な事情からフリーの場合もあるのだ。玉の輿に乗りたい者からすれば、垂涎の的というわけである。  トリーシャが元いた備品管理の業務は、あちこちの部署と顔を合わせるため、交際相手を見つけやすい利点があり、人気は高い。それでゲイルは、トリーシャが戻りたいのではないかと心配しているようだ。 「それにあそこは、各師団と顔を合わせないといけないのが苦痛ですので」  王城には王国を守るための軍がある。王やその家族を守る近衛師団、騎士が所属する騎士師団、魔法使いが所属する魔法師団の三つだ。近衛師団は王城勤務だが、騎士師団と魔法師団は王国内の駐屯地にも散らばっている。 「やはり魔法使いは嫌いかな?」 「ええ。私情を表に出すのは良いことではありません。僕はこちらにいたいです」 「……ふむ、そうか」  ゲイルはあご髭を指先で梳く。 「いやなに、君の元部署の上司が、君が大丈夫そうなら戻したいと言っていてね。そういうことなら、こちらで断っておこう。構わないね?」 「ええ。面倒をおかけして申し訳ございません」 「このくらいのこと、手間でもない。図書室には魔法使いも出入りするから、問題があればすぐに相談しなさい」 「はい、ありがとうございます」  トリーシャは丁寧にお辞儀をすると、その場を離れる。昼休みはすでに過ぎているため、一時間ずらすならば急がなくてはいけない。  図書室を静かに突っ切って、廊下に出る。窓から外を見ると、庭に植えられた色とりどりの花が見えた。 (あれから一年か……)  寒地スノーホワイトに置き去りにされ、トリーシャはあわやのところで救い出された。トリーシャの行先に疑問を抱いた家族が、魔法使いに救援要請を出したのだ。一つの転移門から移動できる地点は三ヶ所のどれかしかないため、魔法使いはすぐに正解を引き当てた。  寒さで気絶していたトリーシャはすぐに医務室に運ばれ、一命をとりとめた。幸い、救出が速かったため、体に不具合が出ることもなかった。  ただし、精神的なショックのせいで、魔法使い嫌いになった。もっと細かく言えば、魔法使い恐怖症だ。  事情が事情なので、職場も理解をしてくれて、こうして王城では閑職とされている司書に異動した。実際のところは、本を運んだり戻したりと、なかなかの重労働なのだが。 (もし誰かと結婚するなら、普通の人がいいな)  まかり間違っても、〈枝〉を与えられた魔法使いはごめんだ。      ◆ 「魔法使いとは、魔法樹エティナルに認められ、〈枝〉を与えられた者のことである」  風に乗って聞こえてきた懐かしい言葉に、ヴィタリ・ノイマンは思わず足を止めて、窓辺に歩み寄った。  さわやかな風がヴィタリの長い金髪を揺らす。窓ガラスに映った端正な面立ちに、淡い緑の瞳が覗く。穏やかな気質のせいか年若く見られがちだが、今年で二十八歳だ。あまり着ない黒と灰色のフォーマルウェアに身を包んだ姿は、少し浮いて見えた。 「あれ、ハワード様だ」  庭の木の下で、老人が小綺麗な少年に本を読み聞かせているのが見えた。  老人と目が合い、ヴィタリは微笑んで会釈をすると、そっとその場を離れる。 (ふう、まさか前任がこんなところにいらっしゃるとは。思ったより、王城というのは自由なのか?)  まさか前任の魔法師団団長が、幼い王子とピクニックをしながら勉強をしているとは思わなかった。王子というのは、厳重に守られた室内で、堅苦しく講義を受けているものだと思っていた。 (それにしてもまさか、ハワード様から、もう年だし王子の家庭教師をしたいから団長を辞めたいと相談されるなんてね。まあ、相談というか、一方通告だったけど。恩師の頼みを断れるわけもない)  ヴィタリが王城に足を踏み入れたのは、八年ぶりのことだ。  これまでずっと、魔法使いの研究所である〈塔〉に入り浸っていた。  ヴィタリは魔法オタクである。特に魔法遺産に価値を見出しており、各地を調査しては〈塔〉に戻って、研究発表をする生活をしていた。三年前に父からノイマン侯爵をゆずられてからは、しかたがなく領地にも戻るようになったものの、基本的な生活スタイルは変わっていない。  そんなヴィタリが今回、王城の魔法師団団長に抜擢された。ハワードの推薦のせいだ。  侯爵という身分があり、〈塔〉では抜群の人望を持ち、魔法使いとしての能力も高い。王から見ても、ちょうどいい人材だったようで、先ほどの謁見ではあっさりと任命されてしまった。城内に部屋を与えられたので、後でそちらに制服が届くようである。 (抜群の人望といってもなあ。私は誰に対しても興味がないだけなのに、わけへだてなく接する素晴らしい人扱いされてたんだよな)  ヴィタリにとって強い関心は、魔法のことだ。  十歳になると、王国の民は魔法樹エティナルに礼拝する。その時、魔法樹に気に入られて〈枝〉を与えられた者は、魔法使いとなる資格を得るのだ。〈枝〉は強い魔力媒体で、魔法使いは杖に加工して持ち歩いている。  謁見の間への許可のない武器持ちこみは禁止なので、ヴィタリは〈枝〉を部屋に置いてきた。  あの礼拝の日以来、ヴィタリは魔法に夢中だった。人付き合いの悪さのせいで、研究を邪魔されたくないという気持ちから、最低限に交流はしていたが、まさかそれが評価されるとは思わなかった。 「あれ? おかしいな。図書室はこちらだったはず……」  ヴィタリはふと足を止める。  魔法師団団長なんて面倒なものを引き受けたのは、恩師に恥をかかせないためと、王家の図書室に出入り自由という特権を得るためだ。〈塔〉よりも貴重な資料が眠っていることがあるのだから、〈塔〉の書籍を読みつくしたヴィタリの矛先が向くのは当然である。  その時、窓から吹きこんだ強風が、ヴィタリが持っていた書類を吹き飛ばした。 「あっ」  とっさに魔法を使おうとしてやめた。城内では、緊急時以外での魔法使用は禁止だと思い出したせいだ。 (まずい。私の書籍リストが!)  閲覧可能かどうかを知るために、司書に渡して調べてもらうはずだった。初日から予定が崩れてしまう。  急いで拾おうとしたところ、向かいから来た小柄な青年が、すっと膝を折って書類を拾い集めた。あまりにも自然な動作だったので、まるで青年のほうが落としたみたいだった。 「すまない。ありがとう、助かるよ」 「どういたしまして。この辺りは春になると、ときどき突風が吹くのです。お気を付けて」  青年は親しげに微笑んだ。  ヴィタリよりも頭半分ほど背が低く、線が細い。モカブラウンの髪はゆるやかに整えられ、紫紺の目の輝きには吸いこまれそうだ。顔立ちは平凡なのに、なぜかヴィタリにはその容貌がキラキラと輝いて見えた。  ヴィタリが食い入るように見つめるせいか、青年の表情に困惑がよぎる。 「あの……?」 「あっ、申し訳ない。なんだか知人に似ていた気がして。私はヴィタリ・ノイマン。こちらに異動したばかりなんだ」 「そうなのですか。僕はトリーシャ・ラスヘルグと申します。王家の図書室で司書をしておりますので、御用の際はお声かけくださいね。ええと……ノイマン様」 「よければヴィタリと呼んでほしい。こちらにあまり知人がいなくてね。一人目の友人になってくれるとうれしいのだけど、ラスヘルグさん」  ヴィタリは笑みとともに返しながら、自分はまともに受け答えできているのだろうかと不安になった。どうして道化じみた笑い方をしてしまうのだろうか。我ながら、表情筋には落ち着いてほしい。 「そういうことでしたら、喜んで。僕のことも、トリーシャとお呼びください。ヴィタリ様」  トリーシャはヴィタリの手にしっかりと書類を渡すと、軽くお辞儀をした。 「それでは。僕はこれから昼食なので、失礼いたします」 「ああ」  軽く手を振りながら、笑みを浮かべてヴィタリはトリーシャを見送る。  トリーシャの姿が遠のくと、盛大なため息をつきながらその場にしゃがみこんだ。バクバクと心臓がうるさい。 「なんなんだろう、これは!」  新たな魔法遺産の記録を見つけた時の高揚感とも似ているが、こんなふうに熱に浮かされたような衝撃はない。 「あっ、見つけた。ノイマン様ですよね。どうしたんですか? まさかご気分でも悪いので?」 「君は?」 「はっ。私はこのたび、団長補佐に任命されました、アガート・トレイムです」  二十五歳前後くらいに見える黒髪と青い目を持つ青年は、魔法師団を意味する白いマントをつけている。その下には黒いローブを着ていた。左手には、短い〈枝〉を持っている。背が高いが痩身で、どことなく黒い犬を思い出させる人懐こさがあった。 「トレイム君、君はトリーシャ・ラスヘルグさんをご存知かい?」 「えっ、ラスヘルグ司書のことですか? 駄目ですよ、近づいちゃ! にらまれたんでしょう? あの方の魔法使い嫌いは有名ですからね」 「ん?」 「え?」  聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。 「ラスヘルグさんが、魔法使い嫌い?」 「ええ、事情があるので、魔法師団の者も関わらないように気遣っています。同胞の一人が、彼に危害を加えたのですよ」 「いっ」  ――いったいどこの馬鹿だ、その同胞は!  ヴィタリの腹の底から怒りが噴き上げてきて、うっかり怒鳴りそうになった。  それを冷静に鎮火させ、笑みをとりつくろう。 「いったいどういうことなのか、ぜひとも教えてくれ。執務室でお茶にしないかい?」 「喜んで! しかし、どちらかにご用事があったのでは?」 「図書室で本を探してもらおうかと思ってね」 「では私が依頼してまいりますので、団長はお先に執務室へお戻りください」  アガートは快く雑用を引き受け、ヴィタリに戻るように促した。
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