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 トリーシャから見た、およそ一年ぶりのレルギ・クルセオは、以前よりも面立ちが変わっていた。  左頬には大きな切り傷があり、全体的にやつれたような印象だ。  灰色の髪にはところどころ白髪(しらが)が混じり、元々目つきの悪い黒目はすさんだ光を帯びている。  レルギにとって、労働刑が過酷なものであったことが一目で分かる。  トリーシャは慎重に問う。 「……どうしてここに? 労働刑にあっているはずじゃ」 「ああ、そうだ。だが、俺はついていた。たまたま視察に来ていた王子殿下を助けた功績で、恩赦(おんしゃ)がくだされたんだよ。トリーシャ、お前のせいで、俺がどんな目にあったか分かるか?」  トリーシャは混乱した。 (功績で恩赦? そんなことがあるのか?)  殺人未遂が傷害罪に下げられたことといい、無期限の労働刑だったのに恩赦を受けたのといい、レルギには悪運があるらしい。  それでどうしてレルギがトリーシャに怒りを向けるのか、トリーシャにはさっぱり理解できない。 「僕のせい? 何を言っているんだ。全部、君がしでかしたことだろう?」  レルギの白いマントも、彼の持つ〈枝〉も恐ろしいが、さしものトリーシャにも反発心がこみあげてくる。 「家同士の契約を破っただけに飽き足らず、僕を寒地スノーホワイトに置き去りにしたじゃないか! 僕は君が謝りたいっていうから、最後の話し合いに応じただけなのに。どれもこれも、君がしたことだ!」  どうしてこんなに良心を踏みにじられないといけないのだろうか。こんな仕打ちをされるほど、トリーシャはレルギに恨まれた覚えもない。  トリーシャは怒りのあまり、頭痛を覚えた。  レルギは鼻で笑う。 「結婚前に少し遊んだ程度で、騒ぎ立てて婚約破棄したのはお前だろ。おかげで、俺がどれだけ父上に怒られたか分かるか?」 「……」  トリーシャはうんざりした。契約内容を知っていたはずなのに、反故(ほご)にしたのはレルギだ。それについてはすでに両家で話した。何度も繰り返す気はない。  会話を長引かせるのも嫌だったので、とりあえず言い分を聞く。 「寒地スノーホワイトに置き去りにしたのは?」 「ちょっと行先を間違えただけだろう。すぐに助け出されたくせに、大騒ぎしやがって。お前のせいで、とんだ目にあったよ」  それはこちらのセリフだと、トリーシャはこめかみに青筋を立てる。 「君とは本当に会話にならないね」  トリーシャにも忍耐の限界というものがある。意思疎通をはかろうと努力する手間をかけるのも、面倒だ。  そこへ、ヴィタリが悠然と会話に割りこむ。 「失礼。レルギ・クルセオ氏だったかな。あなたはまるで、ラスヘルグさんに不満をぶつける権利があると勘違いしているようだ」 「お前には関係ない」  レルギはヴィタリをにらむ。ヴィタリは態度を崩さない。 「そもそも、裁判所から彼への接近禁止命令が出ているはずだよ。今すぐ出ていかなければ、衛兵を呼ぶ」  ヴィタリは穏やかな態度ながら容赦がない物言いで、レルギを追い出しにかかった。  それをトリーシャはあ然と眺める。  トリーシャはヴィタリのことを、誰にでも優しくて親切な人だと思っていた。こんなふうに冷たい態度をとることもあるのかと、意外な一面に驚いている。 「部外者は引っこんでろ! 殴られたいのか?」  以前はもう少しましだったが、労働刑での恨みは、レルギを短気にさせているようだ。見せつけるように右手を握りしめるのを見て、トリーシャは慌てた。お上品にカウンターを回りこむ時間も惜しく、天板に手をついて、ひょいっと向こう側へ飛び降りる。 「ヴィタリ様、下がっていてください。危ないので!」  トリーシャはヴィタリを背に(かば)う。どう見たってヴィタリのほうが上位だし、城での数少ない友人を、トリーシャのトラブルに巻きこみたくなかった。  そうして前に出たものの、トリーシャの背には冷や汗がにじんだ。レルギとの間にあったカウンターという壁が無くなったのが、思ったより脅威に感じられたのだ。ちらりとレルギの持つ〈枝〉を見る。勝手に手が震え始めるのを、ぐっと握りこんで我慢した。 「やっと出てきたな、トリーシャ。恨みの分だ」  レルギは暗い笑みを浮かべ、〈枝〉を突き出す。それが光るのを目にして、トリーシャは身を強張らせた。 「……ごめんね、リィ」  ヴィタリが謝りながら、後ろからトリーシャの腹に腕を回して、ふわりと抱き寄せる。甘いサボンの香りがした。そうしながら、ヴィタリは左手の平でトリーシャの目元を覆い隠した。  ゴウッと風が吹く音がして、ドッと重いものがぶつかる音がした。 「ぐあっ」  やや遅れて、レルギのうめき声がする。  ヴィタリの手が離れると、レルギが図書室の床に倒れているのが見えた。 「え?」  いったい何が起きたのだろうか。  状況を見るに、レルギは風で吹っ飛ばされ、壁にぶつかって気絶したみたいだ。 (人を一人吹っ飛ばせるほどの風なんて……魔法くらいしか……)  トリーシャは嫌な予感がして、混乱する。認めたくなかったのだ。ヴィタリが魔法使いだということを。  騒ぎを聞きつけたのか、たまたま顔を出しただけなのか、前に見かけたことのあるヴィタリの部下のアガートが顔色を変えて現れた。 「ノイマン様、なんの騒ぎですか?」 「トレイム君、城内での不許可の魔法使用罪で、そこの彼を捕縛してくれ」 「え? まさかレルギ・クルセオ? どうしてここに」 「頼むよ、トレイム君。私がその男を殺す前に、どこか目につかないところに連れていってほしい」  アガートはひくりと頬を引きつらせた。 「分かりましたが、後で手当てに戻ります。〈枝〉もないのに、こんな守りの魔法だらけの場所で魔法を使うなんて……。ノイマン様じゃなかったら、腕くらいふっとんでますからね?」  アガートがレルギの後ろ襟をつかんで、引きずって出て行く。 「いったいどうしたの? きゃあっ、血が!」  事務室から出てきたヘネリが悲鳴を上げる。  閲覧室にいる人達も椅子から立ち、こちらを注視していた。 「……血?」  トリーシャがヴィタリのほうへのろのろと視線を向けると、ヴィタリは右手の平から血を流していた。 「トリーシャさん、あれは魔法使い師団が責任をもって対処するよ。安心してほしい」 「そ……そんなことを言っている場合ですか! 怪我をしているじゃないですか!」 「ん? ああ、これ? 実はこの図書室は王家の財産だから、守りの魔法がかけられていてね。こんな所で〈枝〉もなく、無理矢理魔法を使うのはちょっと大変なんだ。媒介(ばいかい)の代わりに、血を使わないといけなくてね」  トリーシャは信じられない思いで、ヴィタリを眺める。  この際、ヴィタリが魔法使いだということは横に置いておく。  それよりもトリーシャの心を揺さぶったのは、ヴィタリのずれた感覚だ。どう見ても大怪我なのに、ヴィタリは雑に上着で血をぬぐって、のんびりと理屈を説明し始めたのだ。 「あ、大丈夫だよ。ナイフで切ったから、傷口は綺麗だ」  ヴィタリはどこかに隠していたらしいナイフを見せて、ひらひらと振る。トリーシャは頭痛を覚え、自分の中で、ぶつりと何かが切れる音を聞いた。 「――馬鹿なの?」  トリーシャの口から、冷たい声が出た。 「誰も理屈なんか聞いてないだろ! まずは手当てだよ。医務室に行きますよ!」  怒りのあまりため口になったのを、途中でなんとか丁寧語に修正する。トリーシャはヴィタリの左腕を軽く掴んで引っ張っていこうとしたが、ヴィタリは動かない。 「ヴィタリ」 「それより、謝らせてほしい。私は君をだましていたんだ。実は私は魔法使い師団の、新任の団長なのだけど、君が魔法使い嫌いだと知って、秘密にしてたんだよ」 「えっ、団長なの⁉」  まさか魔法使いのトップとは思わず、さすがにトリーシャは驚いたが、一方でなるほどと納得する自分もいた。執務室を与えられ、部下を自由に使い、行動時間も自分で決められるとなると、役職は限られる。 「さっきのごめんはそういう意味?」 「それもあるし、君の嫌いな魔法を使って、暴力を振るうこともだよ。それから、ここを血で汚すのも」 「僕は確かに魔法使いは嫌いだよ。でも、僕を守ろうとしてくれた人を憎むほど、不義理な人間じゃないつもりだ。ヴィタリには僕がそういう人に見えてるのかな?」  それほど(かたく)なだと思われているとしたら、トリーシャは落ち込む。 「そうではないよ。ただ……トリーシャは優しいから、私がその優しさにつけこんでいる気がする。勝手な罪悪感から謝っていることも許してほしい」  ヴィタリは否定すると、眉尻を下げて、トリーシャをうかがい見た。ヴィタリはトリーシャよりも背が高いし、年上の男だというのに、今はなぜか子犬のように見える。  トリーシャは困った。  すでにそれを裏切りだと怒るよりも、殊勝な態度をしかたがないと許容してしまうくらいには、ヴィタリに好感を抱いている。 「分かった。許すから、医務室に行こう」  トリーシャはハンカチを取り出して、ヴィタリに右手を出すように言う。ヴィタリはトリーシャの手が汚れるのが嫌なのか、右手を引こうとしたので、ほとんど強引に掴んだ。ハンカチを巻きつける。 「君のハンカチまで汚れてしまった」  ヴィタリはすねたようにつぶやいた。  ハンカチなど些細なものだと、トリーシャはじろりとヴィタリをにらむ。 「そんなに気にするなら、後日、弁償してください」  すると、ヴィタリの表情が明るく輝いた。 「会ってくれるんだね」  トリーシャはため息をついて、ヴィタリのナイフを見つめる。 「その物騒なものを仕舞ってください。それって、城内に持ちこんでいいのですか」 「これは工具だから」  そういう建前で、持ちこんでいるらしい。ヴィタリは小さなナイフを、ベルトの金具に装着した。  工具なのにベルトに隠すのかと疑問を抱いたが、トリーシャは深くつっこむのはやめた。王城で安穏と暮らしたければ、下手なことに口を出すべきではないのだ。例え、友人だろうと。トリーシャは潔癖ではないので、ある程度は見なかったふりをするくらいのずるさも持っている。  トリーシャはヘネリを振り返る。 「先輩、僕も医務室に行ってきます」 「ええ、行ってらっしゃい」  ヘネリも疲れた顔をして、とっとと連れていけとばかりに、トリーシャを促した。  廊下に出て、ひとけがなくなってから、トリーシャはヴィタリを見上げる。ヴィタリはトリーシャに左手を引かれるまま、大人しくついてきた。 「ヴィタリ、どうして魔法使いだということを、僕に隠そうと思ったの?」 「……怒らない?」  ヴィタリは穏やかで落ち着いた大人なのに、こういう時は小さな子どもみたいに問うので、トリーシャは胸の中がむずむずした。――かわいこぶるなと怒るべきだろうか? 「怒らない」 「よかった。それじゃあ、白状するよ」 「うん」  ヴィタリが立ち止まったので、トリーシャも動きを止める。それどころか、ヴィタリはトリーシャの両手を握って、真剣な顔でトリーシャを見下ろした。  首を傾げるトリーシャに、ヴィタリは言った。 「トリーシャ、私は君に一目ぼれしたんだ。好きになったから、近づきたかった」 「……へ?」  ぽかんとするトリーシャに、ヴィタリは再び謝った。 「愛を免罪符に嘘をついた。ごめんね」  じわじわと意味を飲みこみながら、トリーシャが理解したのは、ヴィタリの先ほどの謝罪にはいろんな意味が込められていたらしいということだった。
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