第一話

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第一話

 絃は公園のベンチで小さなバッグと先月亡くなった祖母の位牌を抱えて呆然としていた。もう初夏だと言うのに日が暮れるとまだ肌寒い。  今日の始まりはいつもと何も変わらない、普通の日だった。  朝からお弁当を作り、仏壇に手を合わせて学校に行き、友達と休み時間に人気の配信者や流行っているゲーム、次の休みには遊びに行こうだなんて話をしていたのだ。  ところが、学校が終わりバイトに行って帰ってきたら、絃の世界はガラリと変わってしまっていた。  家の前に異様に目立つ真っ黒な車が止まっていて、その前にはいかにも怖い顔をした男達がズラリと並んで立っている。漫画やドラマの中でしか見たことの無い光景に絃はぼんやりと考えていた。「ああ、誰かが何かしたのかな」なんて。  だからその男たちが待っていたのが自分だなんて考えもしなかったのだ。 「お嬢ちゃん、上からの命令でこの家はもうあんたの家じゃなくなった。あんたには酷だが、大事な物だけ持って今すぐ立ち退きな。それが嫌ならあんたは体を売る事になる」  初老の男が事務的に言った。その言葉に慈悲も何も無い。 「……一体、何が起こってるんですか?」  目の前の光景があまりにも現実離れしていてすぐに理解出来なかった絃に、初老の男はしゃがんで絃の頭に手を置いた。 「一から説明してる時間は無いから簡単に教えてやる。あんたの父親が多額の借金を作ってとんずらした。親父さんはこの家を担保にしてたんだ。なかなかの立地だし多少は足しになるだろうが、親父さんはお前付きでこの家を手放した。だけど俺達だって鬼じゃない。流石に何の罪もない高校生を借金の形に受け取るわけにはいかない。だから選ばせてやる。体を売るか立ち退くか、どっちが良い?」 「……おばあちゃんだけ……連れてってもいいですか?」 「そんだけでいいのか?」  逆に問われて絃は頷く。  理解が追いつかない頭の隅に過ったのは祖母の笑顔だ。今の絃が一体どんな顔をしていたのか、初老の男は何か言いたげな顔で頷き、絃に1万円を手渡してくる。 「もちろんだ。とりあえずこれで今日は宿を見つけろ。それから通帳、ハンコは忘れるな」 「で、でも借金……」 「お前が稼いだもんなんか、たかが知れてる。おいお前ら! このお嬢ちゃんの通帳やら大事なもんまとめてやれ!」 「はい!」  男の言葉に早速若い男達が動き出して、5分後には絃は家から小さなバッグと祖母の位牌を持たされて追い出されていた。  そして今に至る。  辺りは徐々に暗くなり、雨が降ってきた。頬に当たった雨粒に絃は体を強張らせる。 「や、やだ……怖い……怖い!」  どこか雨を避けられる所を探す為に立ち上がろうとしたその時、雨に怯える絃の背後から傘が差し掛けられた。驚いて振り返ると、そこには思わずハッとするような端正で妖艶な顔立ちの青年が立っている。 「やぁ、ここに居たのか」  薄茶色で伸ばしっぱなしの髪を無造作に結んでいるが、月明かりに照らされた姿はまるで絵画のように美しい。  青年は口元に笑みを浮かべて紫色の瞳で絃を見下ろしてくる。  一体何が起こったのか、色んな事が混ざり合って混乱する絃の耳に、優しくて甘い声が降ってきた。 「水がまだ怖い?」 「ど、して」  知っているのだ。それを告げる前に絃は思わず胸を押さえた。呼吸が出来ない。苦しい。ふと足元を見るとそこには水たまりが出来ている。それを見た途端、絃の意識は途絶えた。    次に目を覚ますと、絃は見たことも無い豪華な部屋に居た。  天蓋がついた大きすぎるベッドはどこかの国のお姫様やセレブを連想させる。  一体何が起こっているのか分からなくて絃が体を起こすと、ベッドの脇に人がいる事に気付いた。先ほどの青年だ。 「おはよう。とは言ってもまだ真夜中だけど」  おかしそうに肩を揺らした青年はじっと絃を見つめていたかと思うと、おもむろに絃に手を伸ばしてきた。咄嗟に身構えた絃を無視して青年は真っ直ぐに指先を絃の胸元に持ってくる。 「忘れないうちにこれを返してもらうよ」 「え?」  絃が何か言うよりも先に青年は指先で絃の胸元を軽く突いた。その途端、甘く痺れるような痛みが走る。 「んっ」 「ごめん、痛かった? でもそろそろ返してもらわないと僕はもう飢え死にしそうなんだ」 「な、に?」  驚いて絃が自分の胸元に視線を移すと、そこにあったはずの花のような痣が無くなっている。  胸元にあった痣は絃の初恋の思い出でお守りだ。それが綺麗さっぱり消えていた。 「お守りが!」 「ここにあるよ。元々は僕の物だ。でも君にはもう必要ないはずだよ。それにこれでもう君は歳を取らない」  思わず叫んだ絃に青年は笑って唐突に舌を突き出して見せてきた。そこにはさっきまで絃の胸にあった花の形の痣が浮き出ている。 「ど、どういう事? あなた誰なの?」  あの痣が僕のもの? それはおかしい。あの痣をくれた人は今目の前にいる青年と同じぐらいの年齢だったはずだ。あれからもう十年以上経っているのに、どう考えても年齢が合わない。それに髪だって目だってこんな色じゃなかったはずだ。  ゴクリと息を飲んだ絃に青年は肩を竦めて立ち上がった。 「この姿なら思い出すのかな?」  そう言って青年は微笑んで指輪を外すと、絃を覗き込んでくる。 「っ!」 「思い出した?」  うっとりするようなプラチナブロンドの髪に思わず吸い込まれそうな赤い瞳。どこからどう見ても人間ではないけれど、その姿はあの痣をくれた絃の初恋の人そのものだ。 「ど、どうしてあなたが……一体、何が起こってるの!?」  混乱する絃に青年は椅子に座り直して長い脚を組むと、少し考え込むように口を開いた。 「まずは自己紹介からしようか。あの時はテレビやら野次馬やらで自己紹介も何も出来なかったから。僕の名前はセルヴィ・ハミルトン。ヴィーでいいよ。年齢はそうだなぁ。そろそろ300歳って所かな?」 「……300……歳?」 「うん。まぁもう数えてないから大体だけどね。性別は見ての通り男。種族はいわゆる吸血鬼。でもこの呼び方は俗っぽくて本当はあまり好きじゃないんだ」  見た目に反してよく喋るセルヴィに絃がポカンと口を開けていると、何かを思い出したかのようにセルヴィが突然絃に顔を寄せてきた。 「な、なに!?」 「いや、そろそろ栄養補給しないとかなって」 「え、栄養補給?」 「そう。あ、僕のじゃないよ。君のね」 「私?」 「そうだよ。自覚ないの? 痣が無くなったから怠いはずなんだけど」  言われて初めて確かに何だか全身から力が抜けていくのを感じた絃は、不安げにセルヴィを見上げる。 「気付いた? 駄目だよ、ちゃんと自己申告しないと」 「じこ……しんこく?」  急な倦怠感に座っているのも辛くてそのままベッドに倒れ込みそうになった所で、セルヴィにしっかりと支えられる。  そして次の瞬間、唐突に絃の唇はセルヴィの唇によって塞がれた。 「んんっ!?」  あまりにも突然のキスに絃は抵抗しようとしたが、後ろ頭をセルヴィに掴まれていて動くことが出来ない。戸惑っている間にもセルヴィの舌が口内に侵入してきて、絃はとうとう抵抗するのを止めた。 「大丈夫? あ、もしかしてキス初めてだった?」
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