伸明 39

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しかしながら、和子の長井さんを見る目は、冷ややかだった…  あっさりと、  「…なに、泣いてるの?…バカじゃない?…」  と、皮肉った…  「…女の涙が、武器になるのは、男の前だけ…しかも、若いときだけ…それを、よく覚えておきなさい…」  と、皮肉った…  「…アナタは、これから、一般人…それを、肝に銘じて、生きていきなさい…」  「…一般人…」  「…そう、お金持ちでもなんでもない…普通のひと…」  「…」  「…五井長井家は、昔の大名で、いえば、改易…お取り潰しね…」  和子が、笑う…  「…お取り潰し?…」  「…当然でしょ?…こんな大それたことを、しでかしたんだから…」  「…」  「…と、言いたいところだけれども、アナタのお父様は、五井長井家から、追放して、アナタの母親…あの長井センセイのお姉さま…後妻に入った方を、暫定的な当主に、据えて、将来は、アナタが、継げばいい…伸明が、承知すれば…」  「…伸明さんが、承知すれば?…」  と、長井さん…  「…伸明が、五井の当主…決めるのは、伸明です…」  「…」  「…でも、まだ、今は若い…圧倒的に、経験が足りてない…あと、二十年もして、伸明が、アナタを五井長井家の当主として、認めるならば、アナタの復帰も認めましょう…」  「…」  「…すべては、伸明次第、そして、アナタ次第…」  「…私次第?…」  「…アナタが、二十年後、伸明に認められるぐらいの器量を持てるようになりなさい…」  「…器量…」  「…器量がなければ、誰もひとは、ついてきませんよ…」  あっさりと言う…  「…アナタのように、若ければ、ひとは、騙せます…」  「…騙せる?…」  「…そうです…騙せます…」  「…どんなふうに、騙せるんですか?…」  「…頼りがいがあったり…いわゆる威風堂々としていれば、騙せる人間もいます…ただ、それは、若いときだけ…」  「…若いときだけ?…」  「…三十歳や四十歳にもなって、それが、わからなければ、ただのおバカさん…」  「…」  「…もっとも、それが、わからないようでは、とても、ひとの上には、立てないし、まともな社会生活は、営めないでしょう…」  「…そんな…」  「…そんなもこんなもない…それが、真実…生きるってことを、甘く見るんじゃない!…」  和子が、長井さんを一喝した…  「…アナタのお父様は、それが、できなかった…」  「…父が?…」  「…上ばかり見て、足元を見ることもなかった…結果、ありもしない投資話に騙された…そして、ユリコの話に乗った…」  「…」  「…すべては、アナタのお父様の欲…欲望…欲望がありすぎる…野心がありすぎる…」  「…」  「…そして、アナタもまた、あのお父様の血を引いています…だから、よくよく気をつけること…」  「…なにに、気を付けるんですか?…」  「…我欲…己の欲望…」  「…我欲…」  「…それよりも、他人に尽くしなさい…」  「…他人に?…」  「…今、アナタがやっている看護師…それこそが、他人に尽くすことじゃないの?…」  「…」  「…それを続ければ、自然と我欲を抑えられる…自分の欲望を抑えられる…」  「…」  「…看護師という職業のいいところは、数多くのひとと、出会えることです…」  「…数多くのひと…」  「…入院患者は、入れ替わります…これは、当たり前ね…だから、例えば、この五井記念病院に勤めていても、患者の面子は、自然と変わる…」  「…」  「…その結果、数多くの人間と接することが、できる…数多くのひとと、会うことができる…」  「…」  「…それは、この看護師という仕事の利点…他の職業では、あまりない利点です…」  「…それが、一体、なんの…」  「…少しでも、多くのひとと接する…老若男女を問わず、接する…そうすれば、この世の中、いろいろな人間がいるものだと、知ることができる…実感ができる…」  「…」  「…本を読んだり、ネットで、知った記事ではなく、生身の人間と接することで、おおげさに、言えば、自分の世界が、広がる…」  「…自分の世界…」  「…その結果、アナタの器が広がる…」  「…」  「…ところで、誰が、アナタに看護師になれと、言ったの?…」  「…母です…」  「…そう…ならば、きっと、アナタのお母さまは、こうなることを、予見していたのかも、しれない…」  「…どういう意味ですか?…」  「…アナタのお父様が、いずれ、危ない目に遭うかも、しれないと、考えていたのかも、しれないってこと…」  「…」  「…もしかしたら、そのために、アナタに看護師の道に勧めたのかも、しれない…」  「…」  「…もっとも、これは、うがちすぎ…私の思い込みに過ぎないかも、しれない…」  「…」  「…いずれにしろ、五井長井家は、本家で、一時預かりとします…復活するか、どうかは、アナタ次第…」  「…私次第…」  「…名目上は、アナタの義理のお母さま…長谷川センセイのお姉様を、暫定的な当主に、据えますが、地位もお金も、もう、ほとんどないでしょう…」  和子が、断言する…  「…だから、アナタは、一般人…もはや、五井長井家の人間でも、なんでもない…いえ、五井長井家出身であることは、事実…五井の血を引くのは、事実…でも、もはや、なんの力もない…だから、誰も、アナタに近寄らない…なんの力もなくなったアナタに、近寄らない…もちろん、あのユリコも…」  「…」  「…でも、それでも、アナタが、五井の血を引くのは、事実…まぎれもない事実…だから、気をつけなさい…」  「…どういう意味ですか?…」  「…アナタを利用しようと思う人間が、今後も現れるでしょう…今回のユリコのように…」  「…」  「…でも、それが、五井の宿命…五井に生まれた者の宿命…誰も、そこから、逃れることは、できない…もちろん、私も…」  「…」  「…これは、お金持ちの家に生まれた宿命ね…」  和子が、笑った…  「…だから、長井さん…他人に利用されない…他人に隙を見せない…そして、ひとを、見切る…」  「…ひとを、見切る?…」  「…どんな人間か、わかるようにする…信用できるか否か、自分自身で、判断できるようにする…」  「…」  「…そのためには、看護師のように、さまざまな人間と接触できる仕事が、いい…きっと、アナタのお母さまの狙いもそれね…」  和子が、笑った…  実に、楽しそうに、笑った…  そして、  「…おしゃべりは、これで、おしまい…さっさと、仕事に戻りなさい…」  と、別人のように、厳しい表情で、告げた…  これには、長井さんも、驚いた様子だった…  が、  不満も見せず、  「…今回は、申し訳ありませんでした…」  と、和子に頭を下げて、席を立った…  そして、おおげさに、言えば、逃げるように、この場から、立ち去った…  彼女にしてみれば、一刻も早く、この場から、逃げ出したかったに違いない…  それが、動作に現れたということだ(笑)…  私は、彼女の後ろ姿を見て、そう、思った…  そう、考えた…  そして、彼女が、立ち去ると、私は、和子と二人きりになった…  五井の女帝と二人きりになった…  正直、息苦しい…  プレッシャーが、半端なかった(苦笑)…  とりわけ、今、見た長井さんの父親の末路を聞いたから、なおさらだった…  和子は、私と二人きりになると、  「…寿さんも、今度の件では、迷惑をかけたわね…」  と、私に言った…  …迷惑?…  なんの迷惑をかけられたのだろ?  私は、思った…  私は、考えた…  すると、それが、私の表情に出たのだろう?  「…寿さん…私が、アナタになんの迷惑をかけたか、わからないようね?…」  と、聞いた…  だから、私は、素直に、  「…ハイ…」  と、頷いた…  「…藤原さんのことです…藤原ナオキさん…」  「…ナオキ?…」  「…そう…藤原さんが、逮捕されて、アナタも随分、心配したでしょ?…」  「…それは…」  曖昧に、言葉を濁した…  たしかに、その通りだが、それを、口にすることは、できない…  「…寿さん…ゴメンナサイ…」  と、いきなり、和子は、言って、私に頭を下げた…  私は、ビックリした…  まさか、五井の女帝に頭を下げられるとは、思いもしなかったからだ…  だから、私は、慌てて、  「…お顔を上げて下さい…」  と、言った…  ずばり、懇願した…  「…別に、私は、社長が、逮捕されても…」  と、言った…  慌てて、言った…  が、  和子は、納得しなかった…  頭を上げた和子は、納得しなかった…  「…寿さん…アナタにとって、藤原さんは、特別なひとでしょ?…」  この和子の質問に、私は、答えられなかった…  事実、その通りだったからだ…  が、  同時に、私は、伸明に憧れている…  大金持ちの伸明に憧れている…  正直、結婚したいと思っている…  だから、どう言って、いいか、わからなかった…  とっさに、なんと、言っていいか、わからなかった…  「…寿さん…藤原さんのことを、好きじゃないの?…」  直球だった…  直球の質問だった…  が、  さすがに、この質問に答えないわけには、いかなかった…  「…好きです…」  と、即答した…  「…でも、その好きが、男女の関係かと言うと…」  正直、言えなかった…  難しい…  実に、難しい問題だった(苦笑)…  どう、和子に答えて、いいか、悩む問題だった…  だから、少し悩んで、  「…長すぎた春というか…いまさらというか…」  と、言った…  「…それは、どういう意味?…」  「…ナオキとは、もう知り合って、十五年になります…正直、昔は、男女の関係にありました…でも、今は…」  「…今は…」  「…今は、会社の同士というか…秘書として、長い間、ナオキを見てきました…ナオキを支えてきました…だから、男女の好きというより、互いに会社を支えた同士というか…」  「…」  「…それ以上に、家族という感じです…」  「…家族?…」  「…ユリコさんの息子のジュン君を含めて、家族という感じです…ジュン君は、ずっと、ナオキの息子だと思って、育ててきました…ご存じかどうかは、わかりませんが、私は、ずっと、ジュン君と二人きりで、今のマンションで暮らしてきました…ナオキが、家を出たからです…だから、ジュン君をまるで、息子のように、面倒を見て、きました…」  「…」  「…私は、母子家庭出身です…唯一の肉親である母は、私が、中学のときに亡くなりました…だから、私は、天涯孤独です…だから、ナオキとジュン君は、家族…私にとって、疑似家族です…」  私は言った…  思いの丈を、和子に、言った…  今さら、隠していても、仕方がない…  いや、  それどころか、私が、口にしなくても、すでに、和子は、知っているだろう…  とっくに、私の身辺調査は、したはずだ…  だから、言った…  正直に、言った…  すると、和子は、笑った…  実に、楽しそうに、笑った…                <続く> 
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