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しかしながら、和子の長井さんを見る目は、冷ややかだった…
あっさりと、
「…なに、泣いてるの?…バカじゃない?…」
と、皮肉った…
「…女の涙が、武器になるのは、男の前だけ…しかも、若いときだけ…それを、よく覚えておきなさい…」
と、皮肉った…
「…アナタは、これから、一般人…それを、肝に銘じて、生きていきなさい…」
「…一般人…」
「…そう、お金持ちでもなんでもない…普通のひと…」
「…」
「…五井長井家は、昔の大名で、いえば、改易…お取り潰しね…」
和子が、笑う…
「…お取り潰し?…」
「…当然でしょ?…こんな大それたことを、しでかしたんだから…」
「…」
「…と、言いたいところだけれども、アナタのお父様は、五井長井家から、追放して、アナタの母親…あの長井センセイのお姉さま…後妻に入った方を、暫定的な当主に、据えて、将来は、アナタが、継げばいい…伸明が、承知すれば…」
「…伸明さんが、承知すれば?…」
と、長井さん…
「…伸明が、五井の当主…決めるのは、伸明です…」
「…」
「…でも、まだ、今は若い…圧倒的に、経験が足りてない…あと、二十年もして、伸明が、アナタを五井長井家の当主として、認めるならば、アナタの復帰も認めましょう…」
「…」
「…すべては、伸明次第、そして、アナタ次第…」
「…私次第?…」
「…アナタが、二十年後、伸明に認められるぐらいの器量を持てるようになりなさい…」
「…器量…」
「…器量がなければ、誰もひとは、ついてきませんよ…」
あっさりと言う…
「…アナタのように、若ければ、ひとは、騙せます…」
「…騙せる?…」
「…そうです…騙せます…」
「…どんなふうに、騙せるんですか?…」
「…頼りがいがあったり…いわゆる威風堂々としていれば、騙せる人間もいます…ただ、それは、若いときだけ…」
「…若いときだけ?…」
「…三十歳や四十歳にもなって、それが、わからなければ、ただのおバカさん…」
「…」
「…もっとも、それが、わからないようでは、とても、ひとの上には、立てないし、まともな社会生活は、営めないでしょう…」
「…そんな…」
「…そんなもこんなもない…それが、真実…生きるってことを、甘く見るんじゃない!…」
和子が、長井さんを一喝した…
「…アナタのお父様は、それが、できなかった…」
「…父が?…」
「…上ばかり見て、足元を見ることもなかった…結果、ありもしない投資話に騙された…そして、ユリコの話に乗った…」
「…」
「…すべては、アナタのお父様の欲…欲望…欲望がありすぎる…野心がありすぎる…」
「…」
「…そして、アナタもまた、あのお父様の血を引いています…だから、よくよく気をつけること…」
「…なにに、気を付けるんですか?…」
「…我欲…己の欲望…」
「…我欲…」
「…それよりも、他人に尽くしなさい…」
「…他人に?…」
「…今、アナタがやっている看護師…それこそが、他人に尽くすことじゃないの?…」
「…」
「…それを続ければ、自然と我欲を抑えられる…自分の欲望を抑えられる…」
「…」
「…看護師という職業のいいところは、数多くのひとと、出会えることです…」
「…数多くのひと…」
「…入院患者は、入れ替わります…これは、当たり前ね…だから、例えば、この五井記念病院に勤めていても、患者の面子は、自然と変わる…」
「…」
「…その結果、数多くの人間と接することが、できる…数多くのひとと、会うことができる…」
「…」
「…それは、この看護師という仕事の利点…他の職業では、あまりない利点です…」
「…それが、一体、なんの…」
「…少しでも、多くのひとと接する…老若男女を問わず、接する…そうすれば、この世の中、いろいろな人間がいるものだと、知ることができる…実感ができる…」
「…」
「…本を読んだり、ネットで、知った記事ではなく、生身の人間と接することで、おおげさに、言えば、自分の世界が、広がる…」
「…自分の世界…」
「…その結果、アナタの器が広がる…」
「…」
「…ところで、誰が、アナタに看護師になれと、言ったの?…」
「…母です…」
「…そう…ならば、きっと、アナタのお母さまは、こうなることを、予見していたのかも、しれない…」
「…どういう意味ですか?…」
「…アナタのお父様が、いずれ、危ない目に遭うかも、しれないと、考えていたのかも、しれないってこと…」
「…」
「…もしかしたら、そのために、アナタに看護師の道に勧めたのかも、しれない…」
「…」
「…もっとも、これは、うがちすぎ…私の思い込みに過ぎないかも、しれない…」
「…」
「…いずれにしろ、五井長井家は、本家で、一時預かりとします…復活するか、どうかは、アナタ次第…」
「…私次第…」
「…名目上は、アナタの義理のお母さま…長谷川センセイのお姉様を、暫定的な当主に、据えますが、地位もお金も、もう、ほとんどないでしょう…」
和子が、断言する…
「…だから、アナタは、一般人…もはや、五井長井家の人間でも、なんでもない…いえ、五井長井家出身であることは、事実…五井の血を引くのは、事実…でも、もはや、なんの力もない…だから、誰も、アナタに近寄らない…なんの力もなくなったアナタに、近寄らない…もちろん、あのユリコも…」
「…」
「…でも、それでも、アナタが、五井の血を引くのは、事実…まぎれもない事実…だから、気をつけなさい…」
「…どういう意味ですか?…」
「…アナタを利用しようと思う人間が、今後も現れるでしょう…今回のユリコのように…」
「…」
「…でも、それが、五井の宿命…五井に生まれた者の宿命…誰も、そこから、逃れることは、できない…もちろん、私も…」
「…」
「…これは、お金持ちの家に生まれた宿命ね…」
和子が、笑った…
「…だから、長井さん…他人に利用されない…他人に隙を見せない…そして、ひとを、見切る…」
「…ひとを、見切る?…」
「…どんな人間か、わかるようにする…信用できるか否か、自分自身で、判断できるようにする…」
「…」
「…そのためには、看護師のように、さまざまな人間と接触できる仕事が、いい…きっと、アナタのお母さまの狙いもそれね…」
和子が、笑った…
実に、楽しそうに、笑った…
そして、
「…おしゃべりは、これで、おしまい…さっさと、仕事に戻りなさい…」
と、別人のように、厳しい表情で、告げた…
これには、長井さんも、驚いた様子だった…
が、
不満も見せず、
「…今回は、申し訳ありませんでした…」
と、和子に頭を下げて、席を立った…
そして、おおげさに、言えば、逃げるように、この場から、立ち去った…
彼女にしてみれば、一刻も早く、この場から、逃げ出したかったに違いない…
それが、動作に現れたということだ(笑)…
私は、彼女の後ろ姿を見て、そう、思った…
そう、考えた…
そして、彼女が、立ち去ると、私は、和子と二人きりになった…
五井の女帝と二人きりになった…
正直、息苦しい…
プレッシャーが、半端なかった(苦笑)…
とりわけ、今、見た長井さんの父親の末路を聞いたから、なおさらだった…
和子は、私と二人きりになると、
「…寿さんも、今度の件では、迷惑をかけたわね…」
と、私に言った…
…迷惑?…
なんの迷惑をかけられたのだろ?
私は、思った…
私は、考えた…
すると、それが、私の表情に出たのだろう?
「…寿さん…私が、アナタになんの迷惑をかけたか、わからないようね?…」
と、聞いた…
だから、私は、素直に、
「…ハイ…」
と、頷いた…
「…藤原さんのことです…藤原ナオキさん…」
「…ナオキ?…」
「…そう…藤原さんが、逮捕されて、アナタも随分、心配したでしょ?…」
「…それは…」
曖昧に、言葉を濁した…
たしかに、その通りだが、それを、口にすることは、できない…
「…寿さん…ゴメンナサイ…」
と、いきなり、和子は、言って、私に頭を下げた…
私は、ビックリした…
まさか、五井の女帝に頭を下げられるとは、思いもしなかったからだ…
だから、私は、慌てて、
「…お顔を上げて下さい…」
と、言った…
ずばり、懇願した…
「…別に、私は、社長が、逮捕されても…」
と、言った…
慌てて、言った…
が、
和子は、納得しなかった…
頭を上げた和子は、納得しなかった…
「…寿さん…アナタにとって、藤原さんは、特別なひとでしょ?…」
この和子の質問に、私は、答えられなかった…
事実、その通りだったからだ…
が、
同時に、私は、伸明に憧れている…
大金持ちの伸明に憧れている…
正直、結婚したいと思っている…
だから、どう言って、いいか、わからなかった…
とっさに、なんと、言っていいか、わからなかった…
「…寿さん…藤原さんのことを、好きじゃないの?…」
直球だった…
直球の質問だった…
が、
さすがに、この質問に答えないわけには、いかなかった…
「…好きです…」
と、即答した…
「…でも、その好きが、男女の関係かと言うと…」
正直、言えなかった…
難しい…
実に、難しい問題だった(苦笑)…
どう、和子に答えて、いいか、悩む問題だった…
だから、少し悩んで、
「…長すぎた春というか…いまさらというか…」
と、言った…
「…それは、どういう意味?…」
「…ナオキとは、もう知り合って、十五年になります…正直、昔は、男女の関係にありました…でも、今は…」
「…今は…」
「…今は、会社の同士というか…秘書として、長い間、ナオキを見てきました…ナオキを支えてきました…だから、男女の好きというより、互いに会社を支えた同士というか…」
「…」
「…それ以上に、家族という感じです…」
「…家族?…」
「…ユリコさんの息子のジュン君を含めて、家族という感じです…ジュン君は、ずっと、ナオキの息子だと思って、育ててきました…ご存じかどうかは、わかりませんが、私は、ずっと、ジュン君と二人きりで、今のマンションで暮らしてきました…ナオキが、家を出たからです…だから、ジュン君をまるで、息子のように、面倒を見て、きました…」
「…」
「…私は、母子家庭出身です…唯一の肉親である母は、私が、中学のときに亡くなりました…だから、私は、天涯孤独です…だから、ナオキとジュン君は、家族…私にとって、疑似家族です…」
私は言った…
思いの丈を、和子に、言った…
今さら、隠していても、仕方がない…
いや、
それどころか、私が、口にしなくても、すでに、和子は、知っているだろう…
とっくに、私の身辺調査は、したはずだ…
だから、言った…
正直に、言った…
すると、和子は、笑った…
実に、楽しそうに、笑った…
<続く>
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