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 ようやくママが我に返った。 「いつからなのよ! 何か月なの、そのおなか!」 「わ、わかんないよ」 「……わかんないって」  ママはその場にがっくりとひざをついて座りこむと、そのまま顔を手で覆ってしまった。  ねえちゃんの腕をはなしたぼくは、その手のやり場に困って宙ぶらりんに立ちつくす。 「最後に生理が来たのはいつなの」  顔を上げたママはねえちゃんに聞いた。 「えっと。たぶん冬くらい?」 「冬って! 一月も三月も冬なのよ! ぜんぜん違うじゃない!」  ママが声を荒げた。ねえちゃんの肩がビクッとはねた。 「う……。こ、今年は来ていないかな」  はあ、とママがため息をついた。 「どうして生理の管理もできていないの」 「……だってぇ」 「だってじゃなくて! ちゃんと手帳につけておきなさいよ」 「……手帳なんか持ってないし」 「アプリでも! スケジュールの!」 「うぇ……」  ママのあまりの剣幕に、ねえちゃんがめそめそしはじめた。それを見て、ママがまたため息をついた。 「じゃあ、もう七か月くらいじゃない」  こういう話を、ぼくが聞いていてもいいんだろうか。でも今さら席を外すわけにもいかなくて非常にいたたまれない。  ちゃらんぽらんなねえちゃんが、ちゃらんぽらんなマネをして妊娠した。  ヤバい。かなり。 「……なんで、こんなになるまで、だまってたのよ」  ねえちゃんが言えなかった気持はわからなくもない。ママがいろんなことで、いっぱいいっぱいだったのを知っているから。ママも余裕がなかったんだ。話しかけるのをためらうくらい。  原因はパパだ。  いつも帰りが遅い。十一時を過ぎるのがあたりまえ。ぼくもねえちゃんもすでに部屋へ入っているから、顔を合わせることはない。土日も仕事だといって出かける。顔を合わせるのは平日の朝に、儀礼的におはようというくらい。毎朝交通指導のおじいさんに、おはようございますと言うのと同じだ。  ここ一年半か、二年くらい。「おはよう」以外のことばを最後に交わしたのはいつだったろう。それくらい、パパはぼくらに興味がない。  パパは仕事が忙しいんだといっている。僕も最初は、そんなもんかと思っていた。が、そんな生活が二年も続いたら、いくら中学生でもさすがにおかしいと思う。  なぜパパは家にいない。 「不倫してるのよ」  いつか、ねえちゃんがこっそりとぼくに言った。 「ええ? 不倫って?」  聞き返したぼくに、ねえちゃんはしたり顔で言ったのだ。 「女よ。女がいるのよ」  ねえちゃんは、パパのスマホの通知画面に「会いたい」とか「好き」とか「昨日の夜は」とかいうヤバめのメッセージを見たといっている。「昨日の夜」どうしたんだ。そんなのママには言えない。  ぼくだって「不倫」くらい聞いたことがある。具体的なことはわからないけれど、パパにカノジョがいるってことだろ。  いや、わかんない。なんでそんなことするんだ。ママが大事じゃないのか? ぼくは? ねえちゃんは?  中学生になってさすがに親子で出かけることはなくなったけれど、でもぼくともねえちゃんとも、ママとすらいっしょにいるよりもその彼女といたいってこと?  パパにとってぼくらってその程度のもの?いなくなってもかまわないもの?  ねえちゃんの勘違いであってほしい。そんな期待はかなわなかった、たぶん。
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