別れんな

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 弱い俺はもうこの世には居ない。ただ愛する人が残っている。だけどそれで充分に幸せとすら言う。  夏の始まりの夕暮れに俺は子供のころの風景に立ち尽くしていた。時間が止まったような街は僕が離れてからもずっとそこにあったみたい。故郷はそんな懐かしさばかりだ。  そんな街では再会ばかりが訪れる。昔通っていた商店のおばちゃんが、おばあちゃんになって俺に話しかけたり、新しい建物が増えたと辺りを見回していると、急に懐かしいと言うか痛い思い出が蘇ったりするし、昔にはなかった料理にも故郷の少し田舎臭い味がまだ残っている。止まっていた時間なんてのは単なる俺の思い過ごしなのだろう。 「懐かしい」  呟いてしまうのはそれらよりもっと衝撃の再会があったから。もちろん普通に人だ。その他のモノにだって懐かしさは詰まっていても、それらとは違い人なら相手も懐かしく思い、言葉が交わされる。 「生きてたんだ。ホント、懐かしいね。久し振り!」  にこやかな笑顔が中学生の俺に戻ってしまいそうだけど、実際はもう三十路も過ぎている。それなのに彼女のほうは昔っからの言葉遣いだから更に懐かしい。  再会したのは中学の三年間だけ一緒に過ごした女の子で、それは恋人の事情なんてロマンチックなことではなくて単に部活が一緒だったと言うこと。だけど、俺と彼女は美術部で、元々部員は多くないのでそれはもう普通の友達よりも一緒の時間を過ごしていたんだ。  ふと寄った昔常連だった本屋で彼女は、それも昔通りなのだが美術関係の雑誌を立ち読みしていた。俺は一つため息をついてから「冗談から始めないと話せないのかよ」なんて俺も昔と似たようなことを言い、彼女の横に並ぶ。こんな風に並んで俺も良く立ち読みをしていたからこんなことさえも懐かしくてついそうしてしまった。  そして彼女も普通にそれまで、と昔通りに雑誌を読んで「だって、どんなときにもユーモアを。っていうのは私のモットーだ!」それを聞くと「こんなのまで懐かしいな」と俺はまた昔に戻っていた。彼女のその言葉は聞いたことがあって、俺は自分でそんな風にモットーなんて考えたことがなかったから「おかしな子」だと誉め言葉で思ったのを良く覚えている。 「もう別れてどのくらいの年月が流れたのでしょう? 貴方が居なくなって悲しかったわ」  ヒドイ三文芝居を流暢に見せられて、じゃなくて俺の視線は雑誌にあるから聞かされてる。彼女は演技じみている言葉を話しているんだ。だけど「どんな状況だよ」とつい彼女のユーモアに付き合ってしまう。  すると彼女は雑誌を閉じてコトンと本棚に戻した。その音を聞いた俺が見たのは彼女の笑顔。とても美しくて「話してたら本の内容がわかんなくなった。真剣にお喋りしよう!」とその瞳を俺に向けているが、こんな人だし信条まではわからない。  因みに俺も雑誌を開いているが、そんなのは元から内容なんて気にしてなかった。俺は彼女と話したいから「そうだな」と真剣とお喋りが合わない言葉とは思いながらも本を棚に戻す。つい嬉しくなってしまうのは懐かしいからだと思うようにしている。  当然近くの店員さんが話し声が響いてた僕たちを「うるさい」とばかりに睨んでいるので良いころ合いなのかもしれない。だから僕たちは本屋を出て駐車場のにある自販機に向かう。こんなことも昔は時々あったからそれも懐かしさから。
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