別れんな

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「二人のこれからにとって大事な話があるんだ」  ちょっとデートの雰囲気で例の本屋に彼女を呼び出すと、自販機前に座ってまず俺から話すけど「なんだ? 私と別れたいっての?」なんてやはり彼女は笑っている。そんな笑顔の向こう側に本当は彼女も心配している表情も読み取れるようになっている。冗談だと言いたい。 「そうなんだ。別れ話。俺はもう君と一緒には居たくない」  笑顔のまんまで彼女は俺をぼうっと見ていた。その顔を見ているのが辛くなって「ごめん」という言葉しかなくなっている俺。  一度「冗談じゃないんだ」と呟いてから「理由を聞かせて」と彼女は普段の面白さを忘れて真剣な顔になる。 「会社の健康診断で引っ掛かって調べたら、良くないらしい」  このことは話そうかと迷っていたけど、もう俺は彼女に嘘を付ける人間ではなくなっていた。  だけど、この言葉に対しては「なーんだ」なんて答え、彼女は「病気くらい治るまで待つよ」と優しさだけを表していた。これが普段は面白いばかりの彼女の姿。だから素敵なんだ。 「治らないらしい」  段々と言葉が少なくなる。それでも彼女は笑顔を崩さないで「死んだりしないでしょ。だったら構わないよ」と気楽に話している雰囲気は、自分に言い聞かせてるんだろう。 「余命三年だって」  全て素直に話してしまうつもりだったのに彼女の姿、心配している表情を見ていると僕は泣いてしまっていた。だけど、これは俺からの別れ話なんだと、立ち上がった。 「結婚まで考えてた時だったのにな。運がないんだ。ごめん。別れてね」  嘘の一つもないのは彼女だって俺のことを知っているからわかっているんだろう。だから彼女は笑顔を無くて黙り、俯いていた。 「別れない。そんなの君の思い通りなんかにさせないから! 私がどれだけ貴方を想って、付き合えたことを喜んでたか知らないでしょ。残りは結婚だけで、今の言葉で考えてくれてたんだって本当は抱きしめたいくらいなのに。そんな理由じゃ断るから」  怖いくらいの表情になって彼女は俺に顔を近付け次々と語りながらも泣いて縋るようにして話すのは本当に好きという思いしか無いから。そんな想いが痛いほどに伝わるから、本当は嘘なのだと言いたい。それでもこれは事実なんだ。  普段は読めない彼女のことを存分に思い知らされる。こんなに愛していてくれていたなんて喜び以外のなんでもなくて、本来ならホントーに喜んでいる。だけど、だからこれだけは頷けない。  俺は彼女に顔向けできないで「ごめん。だめだ」と呟くことしかできなくなっていた。これからも付き合い続けてもただ彼女を悲しませるだけになるしかない。俺はそんなことを望むはずもなく、彼女の前から消えようとさえ思っていた。 「私のたった一つのお願い。結婚してください。これだけは叶えて!」  縋りついて顔を挙げた彼女を見ると涙ばかりでいつもの笑顔はない。だけど、その表情が痛くてしかたがない。  それでも「駄目だよ。ちゃんと考えな」と俺は彼女に少し怒る。だって付き合うどころか、結婚となったら彼女の戸籍にさえ傷をつけることになってしまう。だから「俺のことを忘れて」としか言えない。 「忘れられるはずなんてないでしょ! 忘れたくないんだから」 「俺は君のお荷物にはなりたくないんだ!」  これはもしかしたら俺たちになかったケンカになっているのかもしれない。こんな話題で言い合いたくなかった。  それでも彼女は引く様子もなく、俺の服を掴んで「お願い。君が好きなの」と言うから、これには俺も弱くなって「俺も君が好き」と返す。この想いには嘘はない。 「貴方が死ぬなら、それまでずっと一緒に居たい。残された時間を一緒に過ごしたい。私はそれで構わないんだから」  もう負けそうになっている。明るく、笑顔が絶えない、面白いことが好きな彼女。なのに今は泣いてばかりで、この原因は俺にしかない。  俺は自分の想いが叫ぶまんまに彼女を抱きしめる「離れたくないよ」なんて弱音は本当のこと。余命宣告をされたときに一番に思ったのは死の恐怖ではなくて、彼女と別れなければならない寂しさだった。 「だったら、お願い。私と結婚して」  もう断ることはできない。彼女だってそれ相当の覚悟があるのなんてわかっている。だから、俺はただ一度だけ頷いた。  問題は少なくなくて、結婚のことを彼女や俺の両親に伝えると反対された。当然のことなんだけど「なら駆け落ちする」と彼女は簡単に言い張るので、その頑固さからどうにか両親から了解を取り付け俺たちは結婚した。  華やかなウエディングドレスには彼女の笑顔が良く映える。美しいばかりで、俺たちは知らない人から見たらひたすら幸せな二人にしか思えないだろう。たとえそこに死という悪魔が待っていても。  だけど、良いことに関しては俺の病気の進行はそんなに慌てたことでもない。結婚してすぐは全く普通の生活で特段前とちがったことなんてなく、ただ幸せな毎日が過ぎていた。 「こんな風にいつまでも一緒に居られたらな」  時折静かな時間には微笑みと一緒にこんな言葉が彼女からあるけど「最期は訪れるんだよ」と俺は彼女に事実を受け止めさせるために言う。 「もしかしたら寿命が延びに延びて、おじいさんになるまで一緒に居られるかもよ」  あくまで冗談としてそれは受け取っておくことにした。当然俺だってそれを望んでいる。生きたいと思うのは彼女が居るから。  一年が過ぎ、二年目も半分が過ぎたころやはり俺は病気なんだということを知らされる。少しづつではあるが段々と弱って、これまでの調子では過ごせなくなって仕事も徐々に楽なほうにシフトしてもらった。数年前まで必死で仕事だけに生きていたのに、死にたくない今は生きることだけに必死になることがある。  彼女も病気のことを納得していたが、それでもショックな部分はあるのにそんなのを気付かせないようにしているのが、俺にはわかってしまう。笑顔が絶えないのはいつものことなのに、どこか俺の知らないところで彼女は泣いている。  三年間、俺の余命と指定された期間はもう過ぎた。一応生きている。いや一応、ではない。制限はかなり多くなったが、それでも彼女との生活を入院しないで過ごしていた。彼女の冗談じゃなく俺の寿命はかなり延びている。  最期のときが訪れない訳ではなかった。現代医学は確実に嘘をつかないから結婚から四年目には病院から戻れなくなり、五年目の秋、俺はもう彼女と言葉を交わすこともできなくなっていた。 「どうか、俺が居なくなっても幸せになってほしい。俺が死んだらほかの人と再婚しても構わない。俺のことを忘れてしまっても構わない。俺は君が笑っていることを切に願う」  コンピューターの力を借りての最期の言葉を彼女に残した。本当にもう次なんてない。 「心配しないで。私にはあなただけ。これからも愛しているよ」  その言葉を聞いて俺は深い眠りにつく。ただ幸せな人生だった。願わくばもっと長い時間を彼女と過ごしたかった。離れていた期間も、そしてこれからだって。  遠い空から彼女のことを眺める。涙ばかりではない。その理由は俺の代わりに彼女の横にはまだ幼い男の子が居るから。俺の分身と言われるくらいに良く似た息子と一緒に今日も彼女は笑っている。  冬という風景を通り越して新しくなる。まだいつまでも時間なんて続くけど、そこに俺は居ないけど、無くなった訳じゃない。確実に残されているのは、彼女たちの記憶にまだ居るから。 「別れんよ」  今の人間ではなくなった俺はまだそんな言葉を忘れないで愛する人を見えないながらも守っている。 おわり
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