子犬はオオカミさんに包まれていたい♡⑧

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子犬はオオカミさんに包まれていたい♡⑧

「ふーーっ」 近衛は新幹線の席に深く腰かけると大きく息を吐いた。ネクタイを解き無造作にカバンに突っ込み、シャツのボタンを外して首元を緩める。 (なかなかハードだったな) 研修期間中はスケジュールがびっしりと組まれていた。夜は夜でその日の復習、そして明日の予習に費やしていたので、睡眠時間もあまりとっていない。 襲ってくる睡魔と疲労に、シートに頭を預けてもう一度深く息を吐き出した。 (まあ、寝る時間が短いのはいつものことだけど) 疲労を感じる体をどこか他人事のように思いながら瞳を閉じると、眼裏に愛しい姿が浮かんできた。それは疲れた近衛を見つめ、眉毛を下げとても心配そうに近衛を見つめていた。自分を想う愛らしい姿に、自然と近衛の口元が弧を描く。 近衛はスーツの内ポケットからスマホを取り出し、待ち受けを見て盛大に頬をニヤケさせた。 そこには、昔買っていた愛犬のまめの写真、それと近衛の可愛い恋人光琉の写真があった。大学の牧場の動物たちと一緒に写っている光琉を愛し気に見つめる。何度見ても可愛らしいその姿に、研修での疲れが癒されていくのを感じる。 (光琉もまめも動物たちも俺の家族だ。ほんと可愛い) ふふと笑みが自然に沸いてくる。すっかり光琉のいるあの牧場が、近衛の帰る場所になっていた。 (早く会いたい......ひかる) 急激に愛しさがこみ上げてくる。画面をタップして近衛は光琉にLINNを送った。メッセージはすぐに既読がつき、光琉からの返事が返ってくる。 『気を付けて帰ってきてね。俺も、早く近衛先輩に会いたい......はやく抱きしめて欲しい』 「っ......」 帰ってきたメッセージに近衛はドキッとする。あまりに可愛らしい言葉に、嬉しさと愛しさが込み上がり幸せな気分が体全部に広がっていく。 (やべ......俺の恋人めちゃくちゃ可愛い。可愛すぎる) 口元が緩むのを抑えきれず、近衛は慌てて手で押さえた。 その文面だけで、一瞬で疲れが吹っ飛ぶ。ハードな研修も睡眠時間を削ることさえ、光琉を守る糧になるのだと思うと、どれだけ大変だとしても、簡単なことのように思えてくるから不思議だ。 愛し気に画面を見つめてから、近衛はスマホを閉じると視線を窓の外に向けた。 (今日中に帰れてよかった) 研修のご褒美として、ホテルはもう一泊とってあり他の学生たちは明日名古屋を観光してから帰る予定だが、近衛にとってのご褒美は光琉以外の何物でもなく、挨拶まわりを終わらせた近衛は早々に新幹線に飛び乗った。早く柔らかくて温かい光琉に触れたい。そう考えながら、何をするでもなく窓際に頬杖を付いて、近衛はボーッと外を眺める。 『狼上くんみたいな天才が僕の元についてくれたらとても助かる』 ふと病院を出る前に加藤にかけられた言葉が頭を過ぎった。それを思い出し、近衛はどこか遠くを見るような瞳になった。 (天才、か......) 近衛は思わず苦笑を浮かべる。 自分がそう評されることがある、ということは知っていた。大学でもそう言われることが多い。 医学部と獣医学部に属している近衛はちょっとした有名人であり、その上両学部でトップの成績を誇る近衛は、周りから幾度となくそう言われてきた。『こんなことができるのは天才に違いない』『狼上くんは天才だからこんなことができるんだよ』、尊敬、やっかみ、羨望、そう言った気持ちを『天才』というその一言にこめ、何度向けられてきたことだろう。 それを聞くたび、言われるたび、近衛は苦笑いを浮かべるしかなかった。 近衛はただ、大事な家族であるまめの死をきっかけに、もう二度と何もせず大事なものを失いたくない、という強い決心から、一心不乱に自分のすべてを勉強に捧げてきただけだ。人よりできるようになるには、人の倍勉強するしかない。単純で凡人な自分にはそれしか術がなく、寝る間を惜しんで勉強量を増やしている、ただそれだけなのだ。 だって近衛は知っている『本物の天才』というのがどういう人間なのか。 近衛は友人の王子のような美貌を思い出す。大河の噂は入学当初から轟いていた。大学入試を満点合格なんてどんな奴だと思っていたら、とんでもないイケメンでびっくりしたのを覚えている。大河はいつもキラキラと目を輝かせ、自分の興味と探求心をただただ純粋に追い求めていた。寝る間を惜しむ、ではなく寝る間を忘れて研究に没頭し、寝ていないことにさえ気付かない、そんな人間なのだ。目の下にクマができ、顔色が悪くなってもにこにこといつも楽しそうに研究と向き合っていた。 やらないといけない近衛とは違い、ただ楽しいことをしているだけの大河。やりたいから楽しいからしているだけの大河には、勉強や研究をしているという感覚さえないだろう。まあその分、人として大事な生活能力は壊滅的ではあるが。 近衛はふっと息を吐き出す。 (ああいうのが天才っていうなら、俺は違うな) 近衛は疲れを感じているし、帰ったら今回学んだことをもう一度復習しないとと思っている。 自分が目指していることは生半可なことではないと自覚しているからこそ、本当は毎日必死なのだ。 (ま......学生のうちに臨床の現場に立てることなんてあんまりないから、めちゃくちゃ勉強になったけど) 加藤にまで天才と言われるとは思わなかった。からかわれているだけかもしれないが、と近衛は自嘲気味にに笑った。 (天才なんて、俺には程遠いのに......) 苦しさにも似た思いが胸の中に燻り、近衛は視線を俯かせる。 瞬間。 『近衛先輩はほんと努力家。すごいな......』 『また夜更かししてる! もう寝ないと体に悪いよ!』 『近衛先輩が努力家なのは知ってるけど......俺は先輩が心配でっ......』 一緒に暮らす前、そして暮らしてから光琉に言われた言葉の数々が蘇る。それが一瞬で近衛の苦しさを癒し、心を温めた。 自分が決めたこと、覚悟もしていたし大変なことだって分かった上で選んだ道。だからこそ死ぬほど努力を重ねているのに、周りは結果だけを見て簡単に人にレッテルを貼る。何も知らず、近衛を天才だともてはやす周りを、見て見ぬふりをしていたけど、きっと近衛は傷ついていたのだ、そう言われるたび。自分の身を削った努力を、そんなたった一言で片づけられているような気がして。 それに自分でさえ気付いていなかったのに。 だけど光琉は違った。最初から本当の近衛を見てくれていた。近衛の努力に気付いて、それを見つけてくれた。 (自分を見ていてくれる奴がいるって、こんなに嬉しいことだったんだな) 伝えたら光琉はきっと、そんなの当たり前だと首を傾げるだろうけど。それがどれだけ近衛の支えになっているか光琉は気付いていない。光琉の存在があるだけで、近衛はどれだけだって頑張れるし、やらないとと思っていた勉強さえ楽しいと感じることができる。だって自分のやってきたこと、これからやることはすべて光琉の存在が認めてくれるし、光琉がいればすべて報われるから。 愛しくて堪らない。自分がこんなに誰かを愛する日がくるなんて、嬉しくて幸せで夢のようだ。大げさではなく光琉は近衛の生きる糧であり、生きていてよかったと心から思う存在だ。 愛しい、守りたい、可愛い、大好き。そう思う気持ちが、毎日とめどなく溢れてきて止まらない。 (愛してる、俺のひかる) 心の中でそう唱えるだけで、幸せな気持ちが際限なく広がっていく。それが近衛を温めて、さっきまでの苦しさはすっかり胸の中から消えていた。 近衛は光琉と初めて会った時のことを思い出す。 あの頃は心身ともに疲れ切っていて、半ば自分の夢を諦めかけていた時だった。
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