子犬はオオカミさんに包まれていたい♡⑨

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子犬はオオカミさんに包まれていたい♡⑨

「研修、ですか?」 目の前にいる獣医学部の教授は弱り顔で近衛を見つめてくる。 「そうなんだよ......どうしても動物に対する医療知識を学びたいって言ってる学生がいてね。とても熱心だから力になってあげたくて」 話を聞けば、その下級生は獣医学を学びたいと教授に直接お願いに来たらしい。開業医をしながら大学教授を兼任している教授を捕まえるため、何日も獣医学部の前で待ち伏せしていたということらしいから熱心なことだ。 (そりゃ、できたら力になってやりたいけど) こんな話を聞いたら、いつもの自分なら二つ返事で了承しているだろう。 (でも......今は......) 近衛は首の後ろに手を充て、はあと深くため息を吐く。 「俺よりもっと適任がいると思いますけどね」 暗に断りの意を込めてそう答える。 今年四回生に上がった近衛は多忙を極めていた。今まで座学だけだったものに実習が加わり、課題やレポート提出の量も増えている。 正直なところ、この話もさっさと終わらせて実習室に戻りたい。近衛からはありありとそんなオーラが醸し出されていた。 近衛の雰囲気にたじろぎながらも、教授は近衛に向かって手を合わせた。 「頼むよ! もう狼上くんしかいないんだ! みんなに忙しいと断られて!」 「いや、」 俺だって忙しいですよ、と返しかけて近衛は飲み込む。 (忙しい......っていうのとはちょっと違うな......) そう思い自重気味な笑みが零れる。 もちろん忙しくもある。だけど今の自分はそれより。 (今の俺に......そんな余裕ねーよ......) 積み上がった疲労が近衛に重くのしかかっていた。それが体の疲れなら気力でどうにでもなる。これまでだって、どれだけ大変でも乗り越えてきた。だけど今の近衛は心が疲労を訴えている。 「獣医学部と医学部を兼任する天才の君なら、こんなこと朝飯前まえだろう!」 「............」 沈んだ気持ちにさらに追い討ちをかけるような言葉をかけられ、近衛はぐっと押し黙った。 そんなことは気づかない教授は話を続ける。 「とてもいい子だから迷惑をかけるようなこともしないだろうし!」 教授の必死の訴えも、近衛の頭には入ってこない。気づかれないようそっと俯くと、もう一度大きく息を吐き出す。近衛は断るために口を開こうとした。 「農学部の子なんだけどね、田舎から出てきたらしくて......」 「え......」 農学部の、そう聞こえた瞬間、近衛はパッと顔を顔を上げた。 「農学部の奴が、なんで?」 「そーなんだよ! それがね......」 近衛が食いついたのを見逃がさず、教授はことの経緯を話し出した。 (実家が農場と牧場を経営してて、最先端技術を学ぶために田舎から上京してきた。牧場の動物たちのために獣医学も学びたい、ねぇ) 昼間教授から聞いた学生の話を、勉強机に向かいながら近衛は思い出す。 その話を聞き、気づいたら近衛は彼の研修担当を引き受けていた。 田舎から出てきて慣れない都会で暮らすだけでも大変だろうに、どうやら彼は実家のためにできることはすべてやる気でいるようだ。 (そんなん聞いたら力になってやりたいって思うだろーが) 何かのために誰かのために、そういう想いは近衛にも覚えがある感情だ。いや、誰よりも理解できる。 農学だけじゃなく獣医学もなんて、まるで。 「俺と同じじゃねーか」 思わずそう呟いていた。 余裕なんてない、教授に声をかけられた時はそう思っていたけど、彼に会えるのを楽しみにしている自分がいることに気づく。 知らず近衛の口元に笑みが浮かんでいた。
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