一 口止め料はデート一回

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一 口止め料はデート一回

 大都会の快楽と享楽を全て集めたような街。それが『萬葉町』である。都心にあるこの街には、古くから歓楽街が軒を連ね、バブル期にはキャバレーやクラブ、ソープランドなどが数多く集まっていた。それにともない、暴力や悪意もまた、町に集まって来た。ヤクザの勢力が町に根をおろし、多くの店がその影響下にあった。  そんな時代を経て、町を正常化させようという政治的な動きや、時代の変化によって、日陰者は文字通り陰へと潜んでいき、条例や法律などが変わって、いくつもの店が姿を変えた。  それでも、かつての名残を残しながら、萬葉町は変わらず『夜の街』であり続けている。  ここは、そんな萬葉町の一画にある、会員制高級クラブ『アフロディーテ』。その一号店である。生花を抱く女神像が出迎える店先から扉を潜ると、シャンデリアの輝くフロアだ。整然と並ぶ、姿勢の良い黒服たちと、華やかな衣装の女性たち。ベルティーンの張られた椅子ときらびやかな内装。高級クラブの名に恥じない、華やかで美しいフロアだ。 『優菜さんフォローに入ってください』 『佐藤さまいらっしゃいました』 『オーナーよりお花が届いてます!』  耳元のイヤホンから、無線の声が響く。『黒服』と呼ばれるサービス係の仕事は、たとえ忙しくともそう見せてはいけない。優雅に、スマートに、客に煩わしさを感じさせることなく、サービスを提供する。主な仕事は、来店した客の案内、スタッフの配置。注文が入れば酒を作り、提供する。灰皿が使用されれば交換する。接客を行うホステスからの、ハンドサインを読み取って、氷やおしぼりを提供する。ホールでは常に気を張って、気配りをしなければならなかった。 (さすが、ナンバーワンホステスの誕生日。忙しいなんてもんじゃないな……)  身長よりも高くそびえるシャンパンタワー。このシャンパンタワーを用意するだけで、数百万円かかる。それを、五台も用意されているのは、この『アフロディーテ』のナンバーワンホステス、美鈴だ。赤いドレスを身に付け、届いた花束を嬉しそうに抱き締めている。あの花も、今日はなん十個も届いており、フロアどころか控え室まで埋めている有り様だった。  誕生日イベントというのは、客が多く来店するため、店側にとっても重大イベントであるのは間違いない。二号店からも応援が呼ばれており、いつも以上に対応に追われていた。 「アオイくん、ごめん、お菓子がなくなっちゃった。急いで持ってきて貰える?」 「解りました」  大量のグラスを運びながらそういう黒服の女性に、アオイは頷いてバックヤードへと向かう。段ボールが山積みになっている倉庫から、目当ての菓子を探しだし、箱を開けて眉を寄せた。残りが少ない。 (これ、すぐに無くなるぞ。他に在庫は――)  段ボールを見回すが、目当ての品は見つからない。他の場所にあるだろうかと、辺りを確認するが見つからなかった。 (ここ、詳しくないからな……。戻っても忙しそうだし)  アオイは、今日の誕生日イベントのために応援で呼ばれた人員に過ぎない。『アフロディーテ』には何度か応援に来ているが、細かな部分を知っているわけではなかった。 (確か、事務所に店長の八木橋さんが居たはず)  バックヤードの奥にある小部屋が、事務所になっている。この一号店を任されている八木橋充という男が、今日も出勤しているはずだ。  アオイは段ボールを邪魔にならない場所に避けて、事務所に向かった。クリーム色の合板が貼られた扉をノックして、返事を待たずにガチャリとドアを開く。 「失礼します。お菓子の在庫なんですが――」 「んむっ!」  男がむせ返る声に、アオイは目を細めた。 「んぐっ、げほっ、げほっ!」  急に入ってきたアオイに驚いたのか、八木橋は胸を叩きながら涙目になっていた。見れば、事務机の上に、紅茶と食べかけのケーキが載っている。 「――」 「げほっ、げほっ……はぁ、はぁ……。変なところ入った……」  アオイは八木橋を冷ややかな視線で見下ろす。ホールがあれほど忙しいというのに。無関係な自分が、応援に呼ばれているというのに。この男は独り言呑気に、ケーキを食っていた。あまつさえ、紅茶までつけて。 「随分、余裕ですね?」  思わず嫌みを込めて言うアオイに、八木橋が顔を青くして首を振る。 「ちっ、違うよ! 誤解だよ! ちょっと休憩してたんだよぉぉ」 「はぁ。オレはその、ちょっとの休憩も取れてませんけど」 「うぐっ……。だ、だって、美鈴さんがケーキお裾分けしてくれて……。あっ! アオイくんも食べるっ?」 「いるわけないでしょ」  だんだん、能天気な中年男に、呆れてくる。忙しいと知っているはずなのに、何故ティータイムに誘うのか。 「だ、だってね、だって、『店長はこっちに来ないで下さい』って、山形くんが言うんだもん……」 「あー、あの人? 何でです? 今日は猫の手も借りたいくらいですけど」  アオイは山形という名の赤い髪の黒服を思い出した。二号店からの応援だと聞いているが、一号店で働いていたことがあるらしく、なにかと口出ししてくる男だった。 「……営業前にシャンパングラス割って、ワインのボトルも割っちゃって……」 「なにやってんですか」 「だって緊張してっ……」  顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにする八木橋に、ピクンとアオイの目元が揺れた。ざわり、胸がざわつく。  特別な特徴のない、いたって普通の中年男。年齢はアオイが知る限り、三十代後半のアラフォーで、夜の街には似つかわしくない、気弱そうな男だった。こんな男だが、『アフロディーテ』の店長を任され、もう十年になるはずだった。華やかな蝶たちや、夜の店を取り仕切る――しかも、過去にはヤクザがバックに居たこともある店を取り仕切る男には、到底見えない。 (これが演技だったら、なかなかだけど――多分、素なんだろうな)  八木橋の唇にクリームが着いているのを見て、フッと笑みを溢す。冴えない男なのに、妙に可愛く見えてしまうのは、何故だろうか。 「なんで本人じゃなくて、アンタが緊張するんです。ところで、お菓子の在庫、どこかにないですか?」 「あっ、なくなっちゃった? 一階部分に置いてあるんだ。待って、鍵」 「鍵貸して頂ければ、オレ行きますよ」 「ううん。ホール出禁にされてる分、裏方やらないとね」  そう言って、八木橋がニッコリと笑う。 「――じゃあ、一緒に行きますか」  八木橋のあとに続いて、階段を下る。 「でも、ケーキ食べてるとこ見られたの、アオイくんで良かったな。山形くんだったら、また怒られてたよ」  言いながら八木橋が段ボールを取り出す。これだけあれば、今日一日の分は足りるだろう。 「普通に腹立ちますけどね」 「ゴメンって。あと、みんなにナイショね」  人差し指を唇に当てて、八木橋が笑う。自分より十歳以上歳上の男の、無邪気な可愛さが、アオイの琴線に妙に触れた。 「良いですけど――」  アオイは手を伸ばし、八木橋の唇に着いたクリームを指先で掬った。そのまま、その指をペロリと舌先で舐める。 「黙っておく代わりに、今度デートしてください」  八木橋は一瞬、何をされたのか解らなかったようだった。次の瞬間、真っ赤になって「えっ、えっ?」と動揺し始める。その様子を見て、アオイは満足気に笑って見せた。 「オレが『ムーンリバー』から応援に来たの、忘れてないですよね?」  アオイは普段、『ムーンリバー』という店でバーテンをしている。オーナー同士が仲が良いという理由で、かり出されているのだ。『ムーンリバー』というのは、同じく萬葉町にあるバーだ。ただのバーではない。出会いや交流を求めて、マイノリティたちが集う店――ゲイバーである。 「えっ? いや、覚えてるよ? えっ?」 「そう言うことです」 「ええええええ?????」  混乱する八木橋を置いて、アオイは「じゃあホールに戻ります」と言って背を向けた。背後ではいつまでも、八木橋の混乱する声が響いていた。
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