十四 雨音に紛れ

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十四 雨音に紛れ

 酒が趣味になりつつある八木橋だったが、飲まない時の一番の楽しみは、やはりケーキだ。店の子たちからは「身体に悪そう」と言われるが、控えた方が体に悪い。主にストレスで。と、八木橋は思っている。年に一度の健康診断でも、特に妙な数値は出て居ないし、腹回りも今のところ問題なし。となれば、我慢する理由が見当たらず、今日も今日とて、ケーキを求めてしまうのだ。  今日は朝から活動を開始した。理由は単純に、新作のケーキが食べたかったから、開店時間に並んだからである。手にはケーキの箱。中身は新作のケーキが四つ。普段なら店に直行して、事務所でのんびり食べるのだが、今日は少し時間が早い。一度家に帰るかと思いながら、空を見上げた。 (なんか、降りそう……)  空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。傘を持ってきていなかったので、急いで帰らなければと早足になる。  八木橋の家は、萬葉町からほど近いところにある。終電などとっくにない時間に仕事が終わるため、付近に住む以外の選択肢がなかった。そのため、職場に近いことはメリットではあるのだが――ケーキを買うとなると、駅の近くに行くしかない。したがって、買い物から帰ると多少面倒な場所にあった。  しばらく歩いていると、ポツポツと雨粒が落ちて来る。地面を濡らす雨粒を見ながら、ケーキを守るように抱え込んだ。肩にも頭にも、雨粒が当たる。 「わっ……降って来た!」  慌てて小走りになりながら、細い路地を行く。二つほど角を曲がったところで、道の向こうからやって来る青年に見覚えがあり、立ち止まった。 「あれ? アオイくん?」 「え? あ。八木橋さんっ」  八木橋の存在に気づいて、アオイが駆け寄ってくる。近くのコンビニで買い物をして来たのか、手にビニール袋を持っていた。 「どうしたんですか? あ。ケーキ、買って来たんですか」 「そうなの。新作。アオイくんは、今から大学?」 「いえ、今日は休講になってしまって――良かったら、今からうちに来ませんか?」 「えっ?」 「すぐそこなんです」  そう言って、青いがすぐ傍のアパートを指さした。「雨宿りにでも」と誘われれば、断る理由もなく、頷いてアオイのあとに続く。 (雨がやまなかったら――傘でも借りれば良いかな)  カンカンと金属製の階段を上って、部屋の前に着く。ブルーの外壁が印象的な、綺麗なアパートだ。ガチャリと鍵を開いて扉を開き、中へと誘われる。男の子の一人暮らしというだけあって、物はあまりない。綺麗にしているようで、感心して思わず声が出る。 「綺麗にしてるねえ」 「普通です。そこ、座っててください。コーヒーで良いですか?」 「ありがとう。あ、せっかくだし、一緒に食べよう? フォークもあると嬉しいな」 「良いんですか? 楽しみにしてたんでしょ?」 「良いんだよ。半分こしたほうが、美味しいでしょ?」  笑いながら箱を開いて、ケーキを取り出す。その間にアオイがコーヒーサーバーをセットした。窓を見れば、先ほどよりも雨脚が強い。ゲリラ豪雨かも知れないとボンヤリ思った。 「雨、けっこう強いですね」 「ね。雨宿りさせて貰って、助かったな」  笑いながら、何とはなしに部屋を見回す。シンプルで、アオイらしい家具。綺麗なインテリア。本棚に収められているのは教科書の類と資格に関するものが多い。カクテルの本もあった。ほんのりと漂っているのは、アオイの匂いだ。なんとなく、落ち着かない。ざわざわする。 「お待たせしました」  そう言って、まるで店のボーイのようなしぐさでコーヒーを差し出すので、八木橋はなんだか笑ってしまった。 「アオイくん、カフェも似合いそうだね」 「そうしたら、八木橋さんも、ケーキの販売しないと。好きでしょ?」 「ああ、良いねえ。ケーキ屋さん。自分の好きなケーキばっかり置くの」  自分で作ってみようと思ったことはないが、カフェオーナーなら楽しそうだ。美味しいケーキとコーヒーの、こじんまりとした店。独立しようと思ったことは一度もないけれど、『アフロディーテ』にいつまで居られるかは分からない。所詮は、雇われ店長だ。 「良いですね。カフェ、夜はバーをやるっていうのはどうですか? オレ、シェイカー振りますよ」 「それ、最高だね」  良い夢だ。そう思いながら、八木橋はアオイが持ってきたナイフで器用にケーキを切り分ける。何をやっても大抵は不器用な八木橋ではあるが、こういうことは得意だった。ケーキにフォークを突き刺し、一口掬った。 「んーっ、美味しい。これ、美味しいな」 「ん……。ああ、美味しい。爽やかだ。レモンですか」 「こっちも食べてみて」 「あ。これも美味しい。凄いな。ここ、三層になってる」 「アオイくんはカクテル作るから、やっぱりそういう目線になるんだねえ」  雨音をBGMにして、囁くように笑いあう。心地よい空気に、微睡そうだ。 「雨、止みませんね」 「んー。傘、借りるかも」 「ええ、幾らでも」  八木橋はスマートフォンを取り出して、時計を見た。まだ時間はありそうだが、長居するのも悪いだろうか。そう思って、お暇しようと顔を上げる。  アオイが、真剣な顔をして、自分を見ていた。 「アオイくん、僕そろそろ――ん?」 「八木橋さん」  アオイの手が伸びる。肩を押される。 「え?」  ポスッと、クッションの上に寝せられたと気づいた時には、アオイが覆いかぶさっていた。アオイの背に、天井が見える。 「オレがゲイなの、忘れてないですよね?」 「え? それは、うん……?」  忘れてはいない。それが、今の状況とどう関係するのか解らず、目を瞬かせる。 「なら、『知らなかった』は通用しないですからね」 「え?」  そう言うと、アオイは噛みつくように、八木橋の唇に吸い付いた。
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