十八 カクテル言葉

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十八 カクテル言葉

 初めて飲んだのは、『アプリコットフィズ』だった。甘くて、芳しい香りを今でも覚えている。 「――振り向いてください……」  スマートフォン片手にカクテル言葉を調べて、胸がぎゅうっと疼いた。『振り向いてください』だなんて、そんな意味、知らなかった。  ページをスクロールさせて、カクテルを調べる。飲んでいたカクテルはいつも、アオイのお勧めだった。 『ライラ』――『今、君を想う』。 『スクリュードライバー』――『あなたに心を奪われた』。 『ロブ・ロイ』――『あなたの心を奪いたい』。 「――っ……」  事務所の机に突っ伏して、火照った頬をスチールの天板に押し付ける。  こんなに、愛を囁いていたことなんか、知らなかった。でも、思えばいつも、アオイの瞳は甘くて、危険な香りがした。 「アオイくんのこと……勝手に誤解してたな……」  遊びだなんて決めつけて、勝手に逃げていた。だって、自分はアオイより歳上で、おじさんで。 (釣り合わない――)  ズキン、胸が痛む。  アオイとの時間は、楽しかった。変わらない日常が、変化した。アオイが話しかけてくれるのが、嬉しかったのに。 「だって、言ってくれなかった……」  カクテル言葉で伝えても、直接は言われなかった。いや、言い訳だ。アオイはいつも、アプローチしてきたじゃないか。自分はゲイだと前置きして、デートに誘ったじゃないか。知らなかったなんて、言い訳にならない。 (アオイくん……。もう、呆れちゃったかな……)  メッセージを、何度も無視してしまった。怒っているだろうか。失望したかも知れない。八木橋が逃げたことに、傷ついているかも知れない。  八木橋は身体を起こして、扉に立てかけた傘を見た。まだ、出来ることがあるはずだ。自分は少なくとも、アオイと疎遠になりたいと思っていたわけではなく、出来れば、もっと色々な話をしたかった。 「――……」  フゥと息を吐いて、背筋を伸ばす。こんなに緊張するのは、人生で初めてかも知れない。  ◆   ◆   ◆  仕事を終えると、八木橋はまっすぐ『ムーンリバー』へ向かった。息を切らせて店の中を窺う。既に店じまいをしているようで、店の中は真っ暗だった。非常用の明かりだけがうっすらと灯っている。 (もう、帰っちゃったかな……)  出来るだけ早く来たつもりだったが、もしかしたら帰ってしまったかもしれない。ぐっと込み上げるものを堪え、傘を握りしめる。もう少しだけ待ってみよう。そう思って十分が経過した時だった。裏手の扉が開く音に、顔を上げる。黒いパーカーを身につけたアオイが、扉から出て来た。薄暗くて表情はよく見えなかった。アオイが通りにいる八木橋に気が付いて、足を止める。 「――八木橋、さん」 「お疲れ様、アオイ、くん」  アオイは驚いた様子で、それからなんと言って良いか分からない様子で視線を逸らす。 「あ、あの、アオイくん」 「……」  アオイは一瞬唇を開きかけて、結局黙ってしまった。八木橋はその様子に、改めて自分が誤解をしていたこと、傷つけていたことを思い知る。遊びなんかじゃ、なかった。アオイもまた、八木橋との関係を、手探りで距離を掴もうとしていたのに。  八木橋は意を決して、一歩前に近づいた。アオイがビクリと肩を揺らす。 「アオイくん、これ」  そう言って、傘を差しだす。アオイは無言で傘を受け取り、瞼を伏せた。街灯の明かりがまつ毛の陰を頬に落とす。 「――っ、傘なんか、良かったのに」  ボソッと吐き捨てられた言葉に、八木橋の心臓がチクりと痛む。 「……本当は、篠宮さんに、渡してもらおうと思ったんだ」 「……え」 「でも――。でも、アオイくんの気持ち、ちゃんと考えてなかったって、知って」 「オレの、気持ち?」  顔を歪めて笑うアオイに、八木橋はとっさにアオイの腕を掴んだ。自分でも、何が言いたいのか分からない。けど、ここで引いたら、もうアオイとは会えないと、そう思った。 「ゴメン。ちゃんと、向き合ってなくて。僕はおじさんだし、魅力的じゃないし、そんな風に好きになって貰えるなんて、思ってなくて――」 「――」 「あっ、遊びだとか、勝手に思って、そんなの、嫌だなって……、僕……」 「……八木橋さんは、オレが好きだって知って、どう思ったの?」 「え――?」  急に問いかけられ、言葉に詰まる。  どう思ったか。そんなの。 「びっくり、して……、なんで僕みたいな、って……、でも」 「……でも?」 「嬉し、かった……よ?」  言い終える前に、腕を引かれる。アオイの腕が身体を包み込む。ぎゅっと、強く抱きしめられ、空気が肺から抜け出た。 「ん、はっ……」 「なんで」  アオイが吐き出すように、呟く。「なんで、そんなに可愛いんですか」と、耳元を擽る。思いのほか強い力に抱きしめられ、それが心地よくて、戸惑う。アオイの熱が、体温が、腕の力が、身体にのしかかる重みが、何故か愛おしく思えて。 (……これ、僕は手をどこに置くべきなんだろうか……)  正解が解らないまま、八木橋は手をぶらんとぶら下げたまま、されるがままになっていた。
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