食言植物

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 朝、あたしが起きたら、彼氏が蒸発していた。  勿論あたしの彼氏が液体人間で、沸騰するくらい熱されて気化したわけじゃない。ある日突然、人が居なくなる方の意味での蒸発だ。  昨日の夜は一緒に飲んで、ちょっとだけ口論して、それでも一緒の布団に入って「おやすみ」なんて挨拶までかわしたというのに、あたしがいつもより遅く起きたときには既に隣はもぬけの殻だった。  少しへこんだシーツに彼の体温はぜんぜん残っていなくて――それだけではない、部屋に置いてあった彼の持ち物も部屋には残されていなかった。隣り合わせのそば殻枕も、色違いで買ったスリッパも、畳んだまま仕舞われずにいた洗濯物も、仕事用鞄も、眼鏡ケースと目薬も、彼が同棲する際に持ち込んだハエトリグサとかいう植物の鉢植えも無かった。  寝ぼけたまま、おかしいなと家の中を歩き回ったことで、歯ブラシとか、タオルとか、なんなら靴ベラとかシャンプーボトルまできれいさっぱり無くなっていたのがわかった。まるで元から一人暮らしの部屋だったかのように、彼は彼の痕跡ごと、たった一晩で煙のように姿を消してしまったのである。  アルコールの残った頭で電話をかけた。おかけになった電話番号は現在使われておりませんと機械音が丁寧に応答してくれた。メッセージアプリもブロックされているみたいで、既読がつく様子はない。知りえる限りの共通の知り合いに尋ねてみても、誰も何も知らなかった。嘘をついている様子もなかった。なんだこれは。残業続きでくたびれていて、久しぶりの共通の休みが今日だったというのに、これはあまりにもひどい仕打ちだ。  現状を飲み込めない絶望感と、二日酔いからくる頭痛を伴ったまま二日くらい泣きはらして、三日目は顔が腫れて人前に出れる状態じゃなかったから、無理を通して仕事を休んだ。そのまま虚無に胸を占領された状態で終わりそうだった三日目に、あたしは、ふとベランダにひとつだけプランターがあることに気付いた。  室外機に隠れるみたいに、そのプランターはあった。小さいくせにたっぷりと黒い土が入っていて、持ち上げればずしりと重い。中央で、緑色の小さな芽が、ぴょこんと双葉を覗かせている。  植物の研究をしていた彼は、よくベランダにずらっと鉢を並べて色々な植物を育てていたり、リビングに置いていたハエトリグサを我が子のように可愛がっていた。ハエトリグサが無くなっていたように、彼が居なくなったと同時にベランダも随分と閑散としてみえたから、てっきりすべて持って行ったと思っていたが、あたしの思い込みだったようだ。  こんな場所じゃ可哀そうだろうと鉢を持ち上げて、あたしは、その鉢が置いてあった場所に四つ折りになった紙が置いてあることに気付いた。なんだろうと拾い上げてみれば、片面カラーのそれは、この唯一ここに残された植物についての説明書のようなものだった。 「『グチクライソウ』……?」  聞いたことのない植物の名前だった。私は説明を読み進める。 「ええと……『少しの水と、適度な愚痴を与えて育つ植物です。どの季節でも育ち、大きな花を咲かせます』……え、愚痴?」  思わず反芻してしまったのは、驚きからだ。  本当かどうかをあたしは知らないが、植物に音楽を聴かせるとよく育つという話は聞いたことがある。それから、植物を褒め続けると育つという話も類似のもので耳にしたことはあった。けれど、褒めると育つの実験の比較材料で、悪口やネガティブな言葉を与え続けるとどうなるかという実験も確かされていて、その結果、後者の植物は褒められ続けた植物と比べると、まったく育たなかったという実験結果が出ていたはずだ。  けれど、この眼の前の植物には、愚痴を与えろという。 「……グチクライソウって、『愚痴喰らい草』ってこと……?」  だとしたらあまりにもそのままなネーミングセンスである。  一応ネットでも調べてみたが、なにひとつヒットしなかった。そこで初めて、これは彼の最後の優しさだと気付いた。確かに最近仕事が忙しすぎて、帰ってきても甘い言葉も楽しい話もまったくなくて愚痴ばっかりだったけれど、そんなあたしを想ってこれを置いて行ったんだ。 「……だったら、さよならくらい言ってくれればよかったのに」  彼がこの場に居ない今、言ったって仕方のないことだ。わかっていても止まらなかったそれをぽつりとこぼした瞬間、訪れた変化にあたしは目を見張ることになった。 「……え」  にょき、と。  目の前で、土から出たばかりの双葉が震えて、少し伸びた。  幻覚かと思った。いくら植物でも、観察カメラを早送りするならともかく、こんな一瞬で伸びたりはしない。  しないはずなのに、どうみたって目の前の双葉は、最初に見つけた時の姿よりも背伸びした姿であたしの前にいた。
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