食言植物

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 それから、連休に入った。  醜悪な花は気になるものの、リビングの端においやってしまえば一旦は視界から外れるから、それ以上問題はなかった。なんなら、連休に入って仕事も休みになったおかげで、普段よりは幾分か心が穏やかだ。  とげとげしていた心もまあるくなって、だんだんと今の仕事やめようかなあといった気持ちまで湧いてくる。  彼氏と別れたいま、連休に予定はない。帰省するつもりはないし、友人たちは揃って連休中は仕事だから、スケジュールは真っ白だ。  まあ、家でゆっくりするのもいいだろうと存分に羽根を伸ばすことに決めたあたしは、その日、初めて、グチクライソウに水しか与えなかった。  連休なんて、終わるのはあっという間だ。動画サービスで映画を堪能して過ごしたこの数日は、十分に羽根を伸ばせたと思う。ちくちくもやもやしていた心も、いまではすっきりした気持ちだ。  明日からそれらとまた隣り合わせになるんだろうなと考えると憂鬱ではあるが、いまだけは考えないようにしようと頭の中から追い払う。 「……おなかすいたなあ」  ぐう、と素直に鳴いた腹に、冷蔵庫の中を思い出す。  何ができるかなと考えながら、あたしは台所へ向かうと脇に置いておいた水差しの中身をいっぱいにして、グチクライソウの元へと向かった。醜悪な見た目の花だけれど、だからこそ枯らせなかった。水やりがルーティンになっていたのもある。眉を顰めながら、鉢に水をやる。  だけれど、今日も、水をやるだけだ。  まあ、別にいいだろうとあたしは思っている。いままでたくさん、なんならあげすぎなくらい愚痴を与えてきて、花が咲くまで大きくなったんだし。明日からどうせ、また仕事に揉まれたあたしが、耐えられず愚痴を与えるのだろうし。  この連休の数日間与えないだけで、枯れるような植物ではないだろう、きっと。  背中の方で、机に置きっぱなしになっている携帯が、ブブ、ブブ、と何度も振動する。おそらく、友人からのメッセージだろう。時々、何かあったときに彼女はあたしに向けていくつも連投してくることがある。  しかし今日はいつもより携帯が震えている。なんだなんだ、どうした。早速彼氏でもできたか。とあたしが水やりを終えて振り向こうとしたとき、ふいに、その声が聞こえた。  おなかすいた。  あたしはお腹がすいている。確かにお腹がすいている。  それでも、口に出したのはさっきの一回きりで、いまのあたしの唇はずっと、おとなしく上下がくっついていた。  おなかすいた。  なのにもう一度、声が聞こえてくる。  そんなあたしの背後で、携帯がずっと振動している。  おなかすいた。  おなかすいた。  おなかすいた。  たぶん、あたしの足が竦むことがなく、友人のメッセージをちゃんと見ることが出来ていれば、切羽詰まったようなメッセージを読むことが出来たはずだ。もしくは、あたしが映画ではなくて、テレビ番組でもみていれば、結末は違ったのかもしれない。  友人からのメッセージ欄は、短い言葉で氾濫していた。 『捨てて』 『アンタの食言植物、いますぐ捨てて!』 『着信がありました』 『着信がありました』 『ニュースみた? みてないなら見て』 『今すぐ見て』 『アンタの元彼の研究所、炎上してる』 『着信がありました』 『いまなにしてんの』 『着信がありました』 『ねえ!!』  いや、きっと、この時点で遅かった。  あたしに与えられた選択肢は、最初から育てないか、もしくはこの連休中もこの植物が望むものを与え続けるか、そのどちらかしかなかったのだ。  適度ではなく、過度に与え続けたのなら尚更。  きっとあたしは、この連休中に空腹の獣を土に埋め、知らないうちにその首を落としていた。 「おなかすいた」  にょき、と。  愚痴を与えていないのに、グチクライソウがあたしの目の前で伸びていく。  葉が、茎が、花が、根が。鉢を割って飛び出し、部屋の角からじりじりと全体を覆っていくように、あたしを虫籠に閉じ込めるみたいに、壁を這って伸びていく。肥大していく。  その中心で。人間の唇のような食言植物が、言葉を生み出すこのできるアタシを前にうっとりと笑って、言った(・・・)。 「おなか、すいた」  グチクライソウが、大きく口をあける。花の蜜が滴って、アタシの頬にどろりと落ち、顎を伝って落ちていく。  その歯列を間近で見つめたまま、あたしはふいに、酒に呑まれて消えていたはずの、彼氏と最後の口論の言葉を、今になって思い出した。  ――お前、口をひらけば愚痴ばっかりで、もう俺、耐えられない。
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