ひとときから始まる恋

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 仕事中もぼんやりした頭がまわらない。ようやく昼休みになったので、スマートフォンに保存してある諒の写真を表示させた。  ――彼女ができたんだ。  諒の言葉が思い出され、視界が揺らめいた。あれから一週間が経つが、気持ちの整理などできるはずがない。冗談だよ、と今日こそメッセージが届いていないか、何度も確認してしまう。 「友達?」 「……っ!?」  突然真横から声が聞こえて驚く。見ると整った顔がすぐそばにあり、小牧のスマートフォンを覗き込んでいる。 「人のスマホを覗かないでください」 「……へえ」  慌てて画面をデスクに伏せる。「友達」は肯定できなかった。諒は小牧の想い人だ。  男性は小牧の反応をおもしろそうに見つめ、顔を覗き込んでくる。有名な人だが、話したことはないはずだ。人のスマートフォンを勝手に見る無神経さに腹が立ち、言葉をさらに続けようとしたら周囲が一気に騒がしくなった。 「実近(さねちか)さん、なにしてるんですか?」 「ランチ行きましょう、出流(いずる)さん」  女性社員が男性を囲んだ。たくさんの蝶が一輪の花に群がっているように見え、うわ、と声に出そうになるのを抑えた。 「あれ、きみ髪型変えた?」 「は、はい。そうなんです」  軽い調子で女性の肩に触れて「可愛いよ」と微笑む美形は人事部の実近出流。遊び人と噂されているどころか、本人もそれを認めるとんでもない男。 「出流さん、私も人事部に転属したいです」 「きみの力を発揮するには企画部にいてほしいな」  つややかな黒髪、整った顔に似合う甘い微笑み。細められるダークブラウンの瞳に皆うっとりとしている。女性に囲まれていても頭ひとつ分ほど顔の位置が高いので隠れることがない。一七〇センチに少し足したくらいの小牧が並んだとしても顔を見あげる実近の身長は一八〇以上あるだろう。社内で知らない人はいないほどの有名人だ。 「諒とは大違い」  自分で言った言葉にため息をつく。諒にも彼女ができたのだけれど、まだ信じたくない。 「……出がらし」  事務部の先輩から実近のことを教えられたときに「出流」という名前を見て「出流(でながれ)」と読み、笑われた。まさか人の名前で出がらしの意味の出流(でながれ)はないだろうと思ったら読みは「いずる」だった。小牧の中ではその印象が強い。  もう一度ため息が零れ出た。出がらしは小牧のほうだ。失恋ですっかり心が流れ出た。  スマートフォンが短く震え、確認すると諒からのメッセージだった。 『これから恵菜(えな)とランチに行くんだ』  恵菜は彼女の名前だ。ふたりの写真まで送られて来て、ずんと気分が落ちる。夜はデートをする、と初めての彼女に浮かれているのがわかる。スマートフォンをデスクに叩きつけたくなる衝動を必死で抑えた。どうしてそこにいるのは小牧ではないのだ。  就業時間が終わり、部署を後にする。今頃諒は彼女とデートをしている。重い気持ちが腹に溜まってため息をつくが、ますます腹の奥に澱みが溜まるばかりだった。飲みに行こうかと考えるが気持ちがのらない。結局帰宅するために駅に向かう。  小牧の世界の中心は諒だった。世界が崩れていく。ぐらつく心に合わせて足もとがふらついて、まずい、と思ったら誰かに支えられた。 「大丈夫?」 「あ……」  出がらし――ではなく、実近出流だった。慌てて体勢を直し頷く。どんな女性でもオーケーの遊び人。そういうタイプは好きになれないし、小牧は対象ではないとしてもかかわりたくない。 「ありがとうございます」 「どういたしまして。小牧実紘くん。俺と一字同じだ」 「え……」  どうして名前を知っているのかと驚くと、胸もとを指さされた。 「社員証、かけたままだよ」  ぼんやりしすぎていた。重ねて礼を言い、その場を離れようとするが、なぜか手をとられた。 「飲みに行こうよ。字がひとつ同じなのもなにかの縁だ」 「え……?」  それがなんの縁だと言うのか。 「ほら、行こう」  強引に手を引かれて、駅からどんどん遠ざかって行く。なにがなんだかわからず、小牧は頭の中が疑問符だらけになった。  小洒落た居酒屋に連れて行かれ、ふたりで飲むことになった。 「今は飲むような気分じゃなくて」 「まあそう言わずに。年上に誘われたらつき合うものだよ」  こういうところで年齢を持ち出すのはずるい。 「実近さんはおいくつなんですか?」 「二十九。きみはもっと若いよね?」 「二十三です」 「よかった。犯罪にはならなそうだ」  一体いくつに見えるのか。同じ会社の社員同士で犯罪という発想もないだろう。グラスビールをふたつ頼んだ実近は優しく目を細める。女性達に向けていたのと同じ微笑みに居心地が悪くなった。 「飲んでつらいことは忘れてしまおう?」  どきりと心臓が震えた。見透かしたような言葉に、なんとなく視線を逸らす。ビールが運ばれてきて、乾杯という気分ではないことを察してくれたのか、実近はそのまま口をつけた。小牧も続いてビールをひと口飲む。味がしない。 「失恋したんだろ?」 「……どうして」 「そういう顔してる。相手は昼休みに見ていた写真の男だ」 「……」  言いあてられてなにも言葉が出ない。だがまだ抵抗したかった。 「失恋したとは決まってません。……まだ」 「小牧くんは粘り強いんだな」  男同士を気持ち悪いと言わないところは気に入った。小牧が思うほど悪い人ではなさそうだ。 「彼は友達?」 「……」 「聞かせてよ。話すと楽になれると思うよ」  たしかにそうかもしれない、とおずおずと口を開く。 「幼馴染です」 「そうなんだ。ずっと好きだったとか?」 「小学校四年のときからそばにいて、気がついたら好きでした」  この場限りだ、と口にすると、実近の言うとおり少しずつ空気が抜けるように力が抜けていく。実近は優しい相槌で言葉を促してくれる。聞き上手だ。 「ずっと好きで、あいつ――諒以外いらないんです。でも関係が壊れるのが怖くて告白できなかったし、する気もなかった」 「うん。つらいね」 「告白しなくてもずっとこのままいられるんだと疑わなかったんです。馬鹿ですよね。……彼女ができたって先週言われて」  現実を口にすると苦い気持ちが胸いっぱいに広がる。口の中まで苦くなり、眉を寄せた。視線を落とすとグラスを持つ手が震えていて、まだ受け入れられていない自分を再確認した。 「彼は女性が好きなの?」 「そう、だと思います。俺は諒以外好きになったことがないから、ゲイなのかどうかはわからないんですが、ただ諒が好きなんです」  初めから叶わぬ想いだったのだ。それはわかっているのに、もしかしたらなにかのチャンスで諒が小牧を見てくれるのでは、と思っていたし今も思っている。諦めるなんてできないくらい好きだ。  実近は小牧の中に溜まったものを吐き出させてくれた。酔いも手伝って次から次へと言葉が溢れ、幼い頃の思い出も嫌な顔をせず聞いてくれた。  不意に実近が隣に移り、小牧の肩を抱いた。 「え……」  隣を見ると、優しい微笑みと出会った。女性が放っておかないのがわかる、綺麗な顔だ。 「そういうときは誰かに甘えるといい」 「……でも、甘えられる人なんて俺には」  小牧の世界には諒しかいなかった。だからこういうときに甘えられるような人などいない。実近はそんなことなどお見通しという顔をする。 「俺がいるよ」 「……っ」 「大丈夫。力を抜いて甘えてごらん?」  抱き寄せられて優しいにおいを感じる。どうしたらいいのかわからず動きが固まるが、そんな小牧を安心させるように触れた肩をとんとんと撫でてくれる。そのリズムが心地よい。力を抜いて甘える――頬に涙が伝った。 「す、すみません」 「いいよ。今は心の動くままに泣いたり悲しんだりするといい。そのほうが楽になれるよ」 「……ありがとうございます」  こんな言葉をかけてくれる人がいるとは思わなくて、それもさらに涙を誘う。  すすめられるままに飲んで、味のしなかったビールの苦味がわかるようになってきた。気分がよくなってきたところで店を出た。春の夜風が火照った頬を冷ましてくれる。少し飲みすぎたかもしれない。早く帰らないと、そう思った小牧の肩を実近が抱いた。 「あの」 「いいから。ついて来て」 「でも」  少し強引にどこかに連れて行かれる。すっかり実近を信用した小牧はおとなしくついて行く。 「どこに行くんですか?」  それでもやはり行き先は気になる。実近は微笑んで肩を抱く手に力をこめた。 「いいところ」 「……」  なんとなく、そういうことかな、と思ったが、不思議と抵抗がなかった。それこそ酒の力なのかもしれないが、実近が思ったよりいい人だったのもあるかもしれない。連れて行かれるまま足を進めた。  想像したとおりホテルにつき、若干の戸惑いで顔を見あげる。 「こういうときは流されて、楽しむだけ楽しんでしまうのがいいよ」 「……」  そんなふうには考えられない、と身体をそっと離す。 「……ごめんなさい」 「大丈夫。小牧くんが怖いことはしない」  実近はその反応がわかっていたかのように穏やかだ。小牧は余計に混乱する。 「どうして俺なんかに声を……男なのに」 「ああ。俺、女性も男性もオーケーなんだ」  とんでもない人だ、と思うのに、優しく頬を撫でられたらぽうっとなる。薄暗がりで見る整った顔は妖艶で、思わず魅入られる。 「今は甘やかされてみない?」  心が揺らぐ。諒は今頃彼女とデートをしていて、こういうことをしているかもしれない。そう考えたら無性に泣きたくなったが堪えた。ここで帰宅しても部屋で抜け殻のように茫然としている自分が想像できた。 「……今だけ」  実近の手をとった。
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