ひとときから始まる恋

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 罪悪感や後ろめたさが手伝ってしっかり眠れないだろうと思っていたのに、予想に反して熟睡できた。朝はすっきりした目覚めで、気分も悪くない。  一夜限りに実近はちょうどいい相手だった。後腐れがない。諒のことはまだ小牧の中で大きいけれど、他人の肌を知った事実から、少しだけ自分の世界ができた気がした。それは諒を中心としてまわっていた世界が本当に崩れたということでもある。小学生のときからずっと諒だけを追いかけていた小牧にとっては未知の世界。そこになにがあるのかはわからない。  仕事が問題なくできている自分に驚く。いろいろな感情から手につかなくなるかと思ったが、そんなことはなかった。黙々と作業に没頭すれば諒のことも昨夜のことも考えなくて済む。仕事があることがありがたい。  昼休みにランチをとる気力もあって不思議だった。諒から衝撃の言葉を告げられた日からずっと食欲が湧かなかったのが嘘のようだ。  自席に戻ると、デスクの真ん中に缶コーヒーが置かれていた。 「……?」  誰からだろう、と缶を手にとると、ちょうど裏側に缶の形に添って縦に付箋が貼られている。そこには「実近出流」とメッセージアプリのID、電話番号が書かれていた。 「それさっき実近さんが置いていったよ」 「あ……、そうですか。ありがとうございます」  隣のデスクの社員が声をかけてくれるが、小牧が困惑しているのは缶コーヒーではなく、それに貼られた付箋だ。どういう意味だろう、と考え、とりあえず見なかったことにした。  もしかしたらアフターケアだろうか。まめな人だ、と息をつく。一夜限りにケアもなにも必要ない。ただあのときだけ縋らせてくれたらそれでよかったのだ。  意外とドライな自分に気がついた。実近に感謝はしているが、それだけだ。  就業時間が終わってしまった。帰宅したら諒のことで頭がいっぱいになる自分がわかるので、なんとなく帰りたくなくてデスクに残る。 「お疲れさまです」  課長が帰るのを見送る。 「今日の残業はだめだからな」 「はい」  きちんと返事をして椅子に座り直す。なにかをしていないと気が紛れない。デスクに伏せてため息をつき、昼休みの缶コーヒーをぼんやり眺める。飲んでいないし、貼られた付箋もそのままだ。もう一度ため息をつく。 「こら」  頭を軽く小突かれ、顔をあげると缶コーヒーの贈り主がいた。眉を寄せて小牧を見ている。 「今日は残業したらだめだろ。課長に人事から指導するぞ」 「俺が自主的に残ってるだけなので課長は関係ありません」 「そういうわけにはいかない。今すぐ俺と飲みに行くなら見逃してあげよう」 「は?」  手をとられ、ぽかんと口が開いた。小牧の通勤バッグを持った実近が微笑む。綺麗な笑顔だ。 「さあ行こう。それとも課長に指導したほうがいい?」  そういう言い方をされたら、飲みに行くとしか答えられない。だが勘違いされるわけにはいかない。毅然と姿勢を正す。 「言っておきますが、昨日のようなことはもうしませんからね」 「どうして?」  実近は至極不思議そうに問い返す。実近の反応のほうが不思議なのに、当然のように言われると小牧が間違っているような気がしてくる。 「つき合っているわけでもないのに、あんなこと……」 「でも一度しただろう?」 「一度きりです」  実近が顔を覗き込んでくるので身体を引くとデスクにぶつかった。 「よくなかった?」 「……」  正直に答えるのがはばかられる質問にぐっと詰まる。この問いへの答えは、真実をそのまま伝えるならば「とてもよかった」だが、それを口にしたくない。 「可愛く感じていたように見えたけど。それならリベンジさせてくれ」 「だから」 「まあ、とにかく飲みに行こう」  手を引かれて部署を出る。ついて行く恰好になってしまい、小牧は眉を寄せた。 「実近さん」 「新鮮だな」 「え?」 「名前で呼んでいいとベッドで言うと、ベッド以外でもみんな名前で呼ぶから。小牧くんはベッドの中でも『実近さん』だったけど。そんなことは初めてだよ」  可笑しそうに肩を小さく揺らすので、それはそうだろう、と思う。女性達は実近に近づきたくて仕方がない。一歩でもリードしていることを示す行為だろうことは小牧にでもわかる。だが小牧はできるならもうこの人に近寄りたくない。 「俺は――」 「あの彼のことは吹っきれそう?」 「……それは――難しいです」  突然諒のことを振られて身体が強張る。考えたいのに考えたくない。諒は今なにをしているだろう。 「じゃあやっぱり俺と飲みに行くべきだ」  弾むような足取りで先を行く実近に手を引かれる。歩幅が全然違う。 「他の人を誘ってください」 「今日会社に残ってるような、いけない社員はきみだけだよ」 「……」  社ビルを出て五分ほど歩いたところにある和食レストランに連れて行かれた。路地を入ったところにある店で、こんなところにレストランがあったのかと驚いた。強引なのに手を握る力は優しくて、アンバランスにも感じる。 「そうだ。連絡先教えて」 「どうしてですか?」 「気に入ったからかな?」 「軽いですね。お断りします」  諒とは――そう考えそうになってため息をひとつついた。比べてしまうのは仕方がないが、そのたびに虚しくなる。 「なに飲む?」 「お任せします」 「オーケー」  グラスビールをふたつとコースを頼む実近を見ると、心の内が読めない笑顔を向けられて居心地が悪い。 「……どうして俺なんかを」 「小牧くんが気持ちよかったように、俺もすごくよかった」 「それだけですか?」 「他になにか必要ある?」  本当に諒とは大違いだ。  ビールで乾杯するとコースの前菜が運ばれてきた。 「綺麗」  洒落た皿に並んだ色とりどりの酒肴に思わず声が漏れる。実近が笑ったのがわかった。 「普段はこういう料理食べないの?」 「牛丼屋や焼き鳥屋に前菜はありません」 「そうか」  可笑しそうに口もとを綻ばせるので、なんだか恥ずかしくなった。住む世界が違いすぎる。 「きみが行く店も楽しそうだけどな」 「楽しいというか、おいしいです」  牛タンのしぐれ煮でビールが進む。 「今度連れてってよ」 「おひとりでどうぞ」  優しく目を細めた実近に見つめられた。 「過去の男なんて早く忘れたほうがいい」  突然の話題にビールでむせそうになる。はっきりと首を横に振り、実近を見つめ返す。 「まだ過去じゃないです」 「失恋したのに?」  優しいかと思えば傷を抉る。本当にアンバランスな人だ、とため息をつく。実近の口から出た「過去の男」に胸が苦しくなった。 「簡単に気持ちを切り替えられたら楽ですが……俺には無理です」  目を伏せる小牧の手に実近の手が重なる。すぐに手を引いてテーブルの下に隠すと笑われた。 「逃げ足が速いな」 「嫌な言い方をしないでください」 「じゃあお手」  手のひらを出すので、むっとする。犬ではない。 「それはもっと嫌な言い方です」 「だよな」  くくっと笑う笑顔が綺麗で思わず見入る。ぼんやり見つめると、その口もとが緩んだ。 「今、見惚れた?」 「いいえ」 「素直じゃないな」  よくわからない男だ。わかる必要もないのだけれど、気になることはある。 「どうして実近さんはいろんな人と遊ぶんですか?」 「俺に興味ある?」 「ないですけど」  即答した小牧に苦笑して、実近は優しく微笑んだ。まるで、「そうだろうね」と言うような表情は、やはり目を引く美しさだ。 「告白してくれる子がどの子も魅力的でね」 「ひとりを選ばないんですか?」 「それをする必要はあるのかな?」  ひとりを選ぶのが当然だろうが、実近は少しも悪びれずに微笑む。その割り切った考えが逆にいいと思われるのかもしれない。誰も特別にならない、そのときだけの相手。小牧は無理だけれど。 「小牧くんは彼をどうして好きなの?」 「どうしてって、好きなところですか?」 「いや。なぜ恋愛感情をもてるか」 「なぜ……」  とても簡単なことを聞かれているのだろうけれど、答えの出ない難しい質問だ。なぜ恋愛感情をもてるか。男の小牧が男性を好きになる理由も、異性であっても、なぜ人を好きになるのか、なんて誰も考えていないのではないか。ただ惹かれる、それでは答えにならないだろうか。 「そんなに難しく考えなくてもいいんだけどね」  よほど考え込んでいるように見えたのか、実近がまた苦笑いした。 「きみが答えに悩むように、俺も『なぜ遊ぶのか』と聞かれても単純すぎて逆に難しいんだ」  うまくかわされているのか、それとも本心か――それさえ見えない。掴みどころがなく、不可解な生き物のようだ。  お椀が運ばれてきて、蓋を開けると綺麗な海老真丈がふたつ入っていた。上品すぎてため息が出る。 「小牧くんはもっと素直に俺に甘えたほうがいい。気軽でいいんだ」 「遠慮します」 「それであの彼に甘えるのか?」 「……」  それができたら実近に縋るなどしなかったし、する必要もなかった。 「できないよな。彼には恋人ができたし、もとよりきみは自分の気持ちを伝えていない」  傷を抉って痛めつけられ、不快になり唇を引き結ぶ。表情から小牧の感情を読みとったようで、実近が眉を曇らせた。 「小牧くんを傷つけたくて言ってるんじゃない。ただ現実を見るべき、ということだ」 「……それで実近さんに甘えろと?」 「そう」 「身体の相性がいいから?」  実近は口角を綺麗にあげて、「そういうこと」とビールを飲んだ。なんという自由人だろう。気持ちよければ誰でもいいのか。小牧もグラスを空ける。 「次はなにを飲む?」 「なんでもいいです」 「じゃあビールでいいかな」  頷くと、追加のビールを注文してくれた。 「楽しむのは悪いことじゃない。それで傷が癒えるなら一石二鳥だ」 「……」  どうしてか実近が言うと正論のように聞こえて流されそうになる。いけない、と頭を振って、揺らぐ気持ちに活を入れた。 「残念だ」 「え?」 「もう少しで落ちそうだったのにな」  なんだか攻略ゲームをされているように感じた。だがこんなに地味な攻略対象なんてどうなのだ。しかも相手は美形で遊び人。ゲームならば小牧が攻略する側だろう。 「スマホ鳴ってない?」 「あ……」  慌ててポケットからスマートフォンを出して画面を見ると諒からだった。一気に気分が落ち込んで胸が苦しくなる。 「出たら?」 「……」  なんとなく出たくなかったが、そう言われたら出るしかない。仕方なく通話ボタンをスライドする。諒からの電話は気が重い。こんなふうになるなんて、考えてもみなかった。 『実紘、今大丈夫?』 「うん」  じくじくと胸が痛む。続く言葉はきっと小牧が望むものではない。 『これから恵菜のところに泊まりに行くんだ』 「そう」 『なんか緊張しちゃってさ。実紘の声聞いて落ち着こうと思って』 「うん」  緊張していると言いながら弾んだ声。小牧はまったく嬉しくない。素っ気なくならないように気をつけて相槌を打つ。話しているうちに緊張がとけてきたのか、惚気が始まった。あんなことがあった、こういうところが可愛い――心臓に釘が打たれていく。 「今、人と会ってるから」 『あ、そうなんだ。ごめ――』  ついに耐えられなくなり、すべて聞き終える前に通話を一方的に終了した。手が震えている。実近がグラスを置いた。 「彼?」 「……はい。これから彼女のところに泊まりに行くって」 「それなのに小牧くんは自分が楽しむことを拒絶している。健気だね」  諒が女性を抱くという現実についていけない。瞼を伏せたら自然と涙が零れ、慌てて手で拭った。 「すみません」 「――いや」  実近は驚いたように軽く瞠目し、小牧から視線を逸らしてグラスを傾けた。 「やっぱり俺、楽しむなんてできません。諒が好きです」 「その諒くんはきみを抱いてくれないのに?」 「……」  わかっているが、はっきりと言葉にされるとつらい。心臓を殴られたような衝撃に、思わず胸もとを押さえた。 「つき合い始めた彼女といずれ結婚するかもしれない。それでも小牧くんは諒くんのために操を立てて想い続けるの? それはおかしくないか?」  実近の言うとおりでなにも答えられない。  小牧だってわかっている。どんなに現実から目を逸らして希望を持ち続けたところで、それは叶わない。早くこの気持ちに見切りをつけなければいけないこともわかっている。だが十年以上想い続けた人を簡単に心から消し去れない。  返せない答えをごまかすようにグラスの縁を指でなぞる。 「きみはきみで幸せになるべきだ」 「それは実近さんが気持ちよくなりたいからですよね?」  少し乱暴な手つきでグラスをテーブルに置くので、びくりと肩が竦んだ。 「そうでもあるけど、少し腹も立ってる」 「どうして?」 「そこまで想われてるのに気がつかない諒くんにも、必死で諒くんへの気持ちを守ろうとするきみにも腹が立つよ。さっさと忘れたほうがいい」  ビールを呷ってグラスを空けた実近は本当に不快そうに眉をひそめる。空気がぴりっとして据わりが悪い。なにを言っても言い訳になりそうで口を噤むと、実近は眉をさげた。 「すまない。つい感情的になった」 「いえ」  飄々としている実近が感情的になるということに驚いた。なにが起こっても自分のペースを崩さない男に見える。 「今は食事を楽しもう。その後のことはそのとき考えればいい」 「……はい」  空気が和らぎ、ほっとする。実近の言うとおり今は食事を楽しもう、と気持ちを切り替えた。メインの牛の炭火焼きがとてもおいしくて、小牧は思わず言葉を失った。そんな姿を楽しそうに見ている実近は、食べる姿も美しい。 「おいしかったです」 「それはよかった」  デザートのシャーベットまでおいしくいただき、時間としては楽しいものだったと思う。会計はカードでさっと済まされ、どんなに言っても小牧の財布からは小銭一枚も出させてくれなかった。  店を出て夜風にあたると、ほどよく酔って火照る肌が醒め、心地よい。実近が小牧の手を握る。 「小牧くんはどうしたい?」 「どうって……?」 「俺はきみをまた抱きたい」 「……」  首を横に振ると、実近は苦笑した。その答えがわかっていたようだ。 「一度だけという約束です」 「そんな約束をした覚えはないな」  微笑んで小牧の指先にキスをする姿は王子様としか思えない。だが騙されてはいけない。中身は王子様とはかけ離れているのだ、この男は。 「そもそも俺は約束自体しない」 「軽いですね」  こんな軽い王子様に捕まるわけにはいかない。そっと手を引いて実近から離れる。 「小牧くんはおもしろいな」 「どういう意味ですか?」 「俺が求めて断るなんて、きみだけだ。信じられないよ」 「随分な自信ですね」  なんだか可笑しくて、いろいろなことを難しく考えていた自分が馬鹿に思えてくる。もう一度手をとろうとするので背後に手を隠す。 「今日は本当に帰ります」 「じゃあ連絡先だけでも交換しよう」  缶コーヒーの付箋を無視したままだったが、それを咎められはしなかった。先ほど断ったこともなかったようにスマートフォンをポケットからとり出した実近は小牧も促す。 「そのスマホにはどれだけの人の連絡先が入ってるんですか?」 「数えたことないな」  さらりと答えられ、それが逆にすがすがしくて、まあいいか、と連絡先を交換した。砂浜の砂のひと粒になっただけだ、と考えると、最初からそこまで身構える必要はなかったと無駄に悩んだことにため息をついた。 「小牧くんは電車?」 「はい」 「俺はタクシーで帰るから乗って行けばいいよ。俺の部屋に直行して連れ込みたいところだけど、きみの自宅を経由しよう」  はっきりしすぎていて気持ちいいくらいだった。下心を原動力に動いているのだろうか。 「次は色よい返事を」 「嫌です」  タクシーを降りるときに手をとられ、慌てて身体を引いた。小牧のすること言うことすべてを楽しんでいるような表情は、馬鹿にしたものではなく、未知の生き物を見るようだ。  遠くなって行くタクシーを見送り、不思議な人だ、と口もとが緩んだ。
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