ひとときから始まる恋

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 実近が今日も事務部に顔を出すので女性社員が騒ぐ。小牧は用がないので振り返らないが、そのざわめきで彼が来たことがすぐにわかる。 「小牧くん」  見あげると相変わらず整った顔をした実近がいた。 「ランチ一緒に行かない?」 「行きません」 「残念」  最初から断られるとわかっていて誘っているようだ。まったく残念そうではない。 「さて。ランチに行こうか」  実近が女性達に声をかけると、わあっと盛りあがった。アイドルのライブ会場かと呆れる。 「出流さん、ご一緒していいですか?」 「私も行きたいです。実近さん、いいでしょう?」 「出流さん、私もいいですか?」  ふうん、と集団を一瞥する。関係をもつとベッド以外でも名前で呼ぶと言っていたから、つまりそういうことなのだろう。  女性社員達を引き連れて実近は部署を出て行った。あの人は暇なのだろうか。 「……!」  スマートフォンが短く震えて身構える。やはり諒からのメッセージだった。 『恵菜がお弁当を作ってくれたんだ』  彩り豊かな弁当の写真が送られて来て、小牧の気分をどん底に落とした。弁当くらい、小牧だって作れる。  ――つき合い始めた彼女といずれ結婚するかもしれない。それでも小牧くんは諒くんのために操を立てるの?  実近の言葉が耳に蘇った。  操を立てるといっても、すでに実近と一度寝ているから立てるもなにもない。だが二度目を拒んでしまうのは、やはりそうなのだろうか。 『お弁当がすごくおいしくて、感動してる』  それは小牧にではなく恵菜に言うことだ。きっと恵菜にも気持ちのままの素直なメッセージを送っている。諒は素直で純粋だ。小牧がこんなにどろどろした感情を抱えているなどとは微塵も思わない。悔しさに唇を噛む。  実近のような軽い人にはなれないが、もう少し柔軟さがあったらよかった。自分の世界の中心に諒を据えて十年以上すごして来た小牧には難しいことかもしれない。だから実近が眩しく見えるときもある。 「……無理だ」  それでも気軽に楽しむなど、小牧にはできない。  スマートフォンがもう一度震え、また惚気か、とため息をつきながら確認すると実近からのメッセージだった。 『今夜食事に行こう』  とりあえず放置する。既読無視にしていたら着信があった。実近からで、仕方なく出る。 『返事は?』 「行きません」 『残業はだめだ』 「しません」  断られるとわかって声をかけているのかと思ったが、そうでもないのだろうか。食い気味に言葉を重ねられる。 『残業もせず、食事にも行かない。ただ帰ってめそめそするのか?』 「めそめそなんて……」  しない――はず、だが自信がない。強気で来られると負ける。 『だったら飲んで帰ったほうが楽しい』 「それは……そうかもしれませんが」 『了解。今のはオーケーととった』 「なんでですか」  この答えがどうしてそうなるのかわからない。『帰りに迎えに行くよ』と聞こえて通話は切れた。断る前に逃げられた。  終業後、実近が事務部に迎えに来た。女性社員と軽い会話を交わす姿を見て、忙しいなら小牧など相手にしなくていいのに、とため息をつく。デスクに近づいてきた実近にその嘆息を聞かれてしまった。 「なんのため息?」 「忙しいなら俺なんか相手にしなくていいんですよ」  思ったままが口から出た。だが実近は楽しそうだ。 「俺との時間が嫌?」 「そうとは言いませんが」 「あまり気乗りしない?」  今さらとりつくろう必要もないので正直に頷く。さすがにこれは気分を害するかと思ったが、笑い声が聞こえてきた。 「そんなふうに言われたのは初めてだな。小牧くんは不思議な人だ」  小牧からしたら実近のほうがよほど不思議だ。  実近にエスコートされそうになって逃げたが、結局ふたりで会社を後にする。連れて行ってくれた店はまた違う店だった。 「いろんなお店を知ってるんですね」 「教えてくれる子がいるから」  さらりと返ってきた答えに納得しながら感心する。言葉にするなら、「さすが」だ。  実近の外見で放っておかれることはないだろう。小牧も彼のような外見だったら、諒に告白できただろうか――。想像してかぶりを振る。どんな見た目でも、諒との関係を壊すのが怖くてなにもできなかった。  暗い気持ちになり俯くと、顎をもって顔の向きを変えられ、実近と目が合う。 「もっと堂々としていたほうがいい」 「そんなこと、できません」 「胸を張っていたほうが気持ちもすっきりするよ」  そのとおりだろうけれど、小牧にはできない。顎を持つ手を離されると重力に負けて俯く。 「小牧くんは内向的だね」 「はい」 「しかも、いつも『待ち』の体勢に見える」 「待ち……」  呟いた言葉は胸に重く響いた。  実近の言うように、ずっと待っていた。諒に気がついてもらえるのを、想いが実るのを、ただ待っていた。わかっていて見ないふりをしていた自分にはっとする。 「飲み物をなににするかと聞いても『お任せします』、『なんでもいい』だ。俺がきみの飲めないものを注文したら我慢して飲むんだろう?」 「それは……」 「待つだけじゃなにも手に入らないし、欲しいものとは違うものが来ることだってある。その結果、きみはいつも我慢に行きつく」  正しい、と思った。なにも言わずに待っていて、自動的に引き寄せられてくるものなどない。たとえ手もとに来たとしても、それが小牧の欲しいものだという確証もない。結局いつだって我慢をしながら受け入れる。自分が行動を起こさなければ変わらない――変われない。 「だから実近さんは手を出すんですか?」 「そのとおり」  この人と話していると凝り固まった心がほぐれる。まったく違う世界の、とんでもなく軽い考えの男なのに、言っていることは的を射ていて感銘さえ受ける。小牧の知らない世界だ。 「ほら。飲みなよ」 「はい」 「まだ引きずってるんだろうから、さっさと忘れるためにも気持ちを切り替えないと」  本当にそのとおりのことばかり言われるが、小牧が諒を忘れられる日は来ないだろう。それほどに大きな存在なのだ。だが、少しだけそこに隙間ができていることに気がつく。その隙間には実近がいる。変な人として。  おいしい食事に楽しい話題、口あたりのいい酒で気分がよくなった。食事を終えて店を出たところでスマートフォンが鳴る。嫌な予感に画面を見ると、諒からの着信だった。心地よい酔いが一気にしぼむ。 「出ないの?」 「……出ます」  通話ボタンをスライドする指が震えた。 『なにしてた?』 「別になにも」  諒も酔っているようで、気分よさそうにまた恵菜の話が始まった。 『でさ、抱きしめると「離さないで」って甘えるんだ。可愛いだろ?』 「そうだね」 『今度実紘に紹介するよ。会ってほしい』  鼻歌でもうたい出しそうな諒の声に『諒くん、お風呂先入って』と呼びかける女性の声が重なった。 『悪い。またな』 「うん……」  痛む胸を押さえて通話を終える。実近が心配そうにこちらを見ているが、気丈に振る舞うことなどできなかった。 「大丈夫か?」 「……はい」  瞼を伏せてやりすごそうとしたが、涙が伝い落ちた。慌てて拭おうとしたら実近に抱き寄せられた。 「なんできみは――」 「え……?」 「――いや。行こう」  なぜか駅とは違う方向に連れて行かれ、ついたのはホテルだった。 「実近さん……」  頭を撫でられ、そんなつもりはないのに、抱き寄せられるまま建物に足を踏み入れた。 「ぁう……ふっ」  部屋に入った途端に甘いキスをされ、快感が目覚めた。口内を舐め尽くされ、脚が震えはじめる。 「支えてあげるから、力抜いて」 「ん……ぁ」  理性を崩されていき、スーツを乱される。言われたとおりに力を抜くと、優しい微笑みが向けられた。なだめられ、甘やかされることで苦しさが紛れる。 「実紘は流されてるだけだ」 「……あっ、だめ……」 「全部俺のせいにして。今は委ねて」  貪るように求められ、その背に腕をまわす。また肌を重ねてしまったことに、驚くほど罪悪感がなかった。  先日と同じようにタクシーで小牧の部屋に寄ってくれた。 「小牧くんが弱っているところにつけ込んだ自覚はある」  どこか浮かない様子を隠すように顔を背けられた。ドアが閉まり、タクシーが去って行く。別れ際の曇った顔から、いまいちだったのだろうか、と少し気分が沈んだ。それならこれでもう誘われることはない、となんとも表現できない感情に支配された。
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