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その週の休日はひとりで悶々とすごすのかと思っていたが、いつもの調子で実近から連絡が来た。
『食事に行かない?』
とりあえず無視すると、続けてスマートフォンが短く鳴った。
『行きたいときは素直にそう答えたらいい』
誰が行きたがっているのか、と呆れる。本人も言っていたが自信過剰だ。断られるとは思っていないらしい。先日の様子のおかしさはどこかへ消えている。
『迎えに行く』
返事に困っていたら、向こうが押してきた。断らなければ、と思うが、ふっとまあいいか、という気持ちになった。今頃諒も彼女とすごしている。それは昨夜連絡があったから知っている。諒の惚気話が止まらないから、小牧は精神的に参った。あてつけではないけれど、どこか投げやりな気持ちで『わかりました』と返信した。
車で迎えに来た実近は当然私服で、まるでファッションモデルが画像から出て来たかのようだった。
「どこに行くんですか?」
「いいところ」
助手席のドアを開けてくれた実近は微笑んだ。そこでもやはり、まあいいか、という気持ちがやってきた。気を張っているのも疲れるのでシートにもたれる。
「珍しく嫌がらなかったな。俺を好きになった?」
「なるわけありません」
「平常運転だ」
笑われるが嫌な気はしない。実近とのやりとりも慣れてきた。
ついた場所はマンションだった。
「ここは?」
「俺の自宅。もちろんひとり暮らし」
「それは別に聞いてません」
実近は「だろうね」と笑った。
「自宅にお邪魔するなんて、そんなつもりはないんですが」
「それはどんなつもり?」
言葉に詰まる。意識しすぎかもしれない。実近という男はペースが掴めない。ぐいぐい来るかと思えばすっと引く。これが大人の駆け引きというものだろうか。
「大丈夫」
肩を抱かれて、すでに「大丈夫」が霞んでいる。そんな小牧の気持ちに気がついた実近が苦笑した。
すっきりとした部屋で、インテリアに気を使っているように見せずに洒落ている。本を置く角度さえ計算されているのではと感じるくらい彼を引き出した部屋。「自信過剰」と抱負を額縁に入れて飾っていてもおかしくないほどに部屋まで「実近出流」だ。
「小牧くんは食べられないものある?」
「ないです、が……実近さんが作るんですか?」
「そう。俺の手料理を食べられるのは俺の親以外にきみだけだよ」
ありがたいのかそうでないのか反応に困る。ソファに座って待っていると、いいにおいがしてきた。
「簡単だけどおいしいんだ」
パスタとサラダ、スープがテーブルに並ぶ。レストランで出てくるような盛りつけだ。皿も洒落ている。
「なんでもできるんですね」
「惚れた?」
「全然」
なぜ実近は自分にこんなにしてくれるのだろうと不思議に思った。ただの気まぐれにしては優しすぎる。それとも実近はこういう人間なのか。
「俺なんかじゃなくて女性達と楽しまなくていいんですか?」
「他の人は自宅に呼ばないよ。休日に会いたいのも小牧くんだけ」
「なるほど。信じません」
小牧くんだけ――心臓がとくんと高鳴った。なぜこんな甘い拍動が、と首を傾ける。実近に対する反応としては間違っている。
昼間からワインを開ける実近に「俺は遠慮します」と先に断る。
「それはだめ」
グラスは二脚並べられた。つき合わないわけにはいかなそうだ。
「休日くらい、いいだろう?」
「はあ」
たまにはいいか、とワインに口をつけた。フルーティーで芳醇なのにすっきりした飲み口に感動すら覚えた。小牧が普段飲むワインとはまったく違う値段だとわかる。
「おいしい?」
「はい」
「とっておきのワインだよ」
そんないいものをなぜ小牧なんかと――次から次へと疑問が浮かぶ。
「小牧くんとだからね」
実近もグラスに口をつけ、満足そうに微笑んだ。
食事とワインで心地よい気分になってきたとき、ポケットのスマートフォンが短く鳴った。ああ、とげんなりする。そうに違いない。
「すみません」
「大丈夫だよ」
断ってから画面を確認すると、やはり諒だった。恵菜との写真が送られて来ている。
『今、恵菜と遊園地に来てる』
諒はこんなに無神経な人だっただろうか――考えてから、無神経もなにもない、と思い直した。諒は小牧の気持ちを知らないのだから。
唇を引き結んだら胸が刃物で貫かれたように痛んだ。震える指先を隠すようにぎゅっと握り込むと、大きな手で包まれた。
「小牧くんは我慢強いね」
「……」
「でも少し力を抜いたほうがいい」
「あ……」
すくいとられるように唇が重なった。ワインの香りがするキスにくらりとする。そんなつもりはなかったのに――頭で考えるのと身体は別の動きをした。実近の背に腕をまわし、縋りつくように力を込めた。
「実紘」
甘い囁きに肌が熱くなり、また身体を許してしまった。
「気軽に楽しむってこういうことですか?」
乱れたシーツの上に横になったまま聞く。ベッドに腰かけた実近はミネラルウォーターの蓋を開けてひと口飲んだ。
「気軽に楽しむなんて、小牧くんらしくないな。きみには似合わないよ」
どこか寂しそうな声は、なにを意味しているのだろう。
「実近さんがそうするべきだと言ったんでしょう?」
「それは……そうなんだけど」
歯切れの悪い言葉に身体を起こすと、口移しでミネラルウォーターを飲まされた。口の端から零れたものを綺麗な指が拭う。ゆっくりと注がれる水分で渇いた喉を潤されるまま瞼をおろす。こういう関係も悪くないのかもしれない。そんな変化が生まれた。その間だけ、諒を忘れられるから。
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