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最近の実近は女性と一緒にいない。事務部にもひとりで来る。前まではわらわらと女性に囲まれていたのに、と不思議に思う。今もデスクに手をつき、小牧の顔を覗き込んでいるが、女性の声に反応しない。どうしたのだろう。
「帰りに食事に行こう」
「行きま――」
断ろうとして、そこまで難しく考えなくてもいいのかもしれない、と言いかけた言葉を呑み込んだ。
「――わかりました」
実近が驚いた後にはにかんだ。
諦めだろうか。それとも気軽さに慣れて吹っ切れたのだろうか。心に諒がいるのに、実近との時間を持ってもいいと考える自分がいる。
また以前行ったのとは違う店に連れて行ってくれた。洒落たオイスターバーで、生牡蠣がおいしくて酒が進む。弾む会話も食事を引き立てて、とても楽しい時間をすごせた。
「今日は誘ってくれてありがとうございます」
「え?」
「なんだかそんな気分になったので、お礼を言ってみました」
素直に口にするとぽかんされた。そんな表情さえ整っているのは不公平だ。
「『今日は』って、今日以外は感謝してないの?」
表情を崩した実近が試すような視線を向けてくる。そんな目で見られても小牧には効果がないとわかっているだろうに。
「はい」
「素直にいつも楽しいと言えばいいのに」
苦笑されて小牧は切子グラスに口をつけた。楽しいけれど、なにかが違った。だが今日は硬い殻がはずれたように気持ちが穏やかなのだ。
「小牧くんの涙は素直なのにな」
呟くような、囁きのような、わずかな熱を持った声だった。
「意地っ張りなくせに素直に泣けるきみが可愛いよ」
頬が猛烈に熱くなった。可愛いなどと言われたことはない。実近は目が悪いのだろうか。ベッドでの睦言とはまた違う甘さを含んでいた。
「お世辞を言ったところでなにも出ません」
「それは残念」
やはりお世辞だったのだ、と思うと少し寂しくなった。その感情の揺れに小牧自身不思議になる。
「気軽に楽しむのもいいですね」
こういう関係はきっと実近とだから築けている。他の人だったら無理だった。そういう意味では実近も、諒とは別の意味で小牧の「特別」かもしれない。
「小牧くんにそれは似合わないと言っただろ?」
「でも」
「本気になるべきだ」
急に真剣になった表情に手もとが狂う。切子グラスを倒してしまったが、空だったので助かった。グラスを起こして実近をもう一度見る。
「え……?」
そこには今まで見たことのない、どこまでも誠実そうな男がいた。実近のそんな姿は知らない。
「俺はきみに惹かれてるよ」
突然の言葉に頭の中が真っ白になった。視線を合わせたまま身体が固まる。心臓の動きが全身に響き、妙な緊張感が背筋をとおった。
「――すまない。酔ったのかもしれない」
「あ、ああ……酔ったんですか……」
目を逸らす実近にほっと息をつく。酔いで思ってもいないことを口走ったのか、と安堵して寂しかった。異なる感情について行けない。
「だが言ったことは嘘じゃない」
どくんと心臓が跳ねあがった。周囲の音が遠のく。
「きみも俺を好きになれ」
低い声がひどくはっきりと鼓膜に響いた。
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