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実近の言葉がずっと頭の中をまわっている。
――俺はきみに惹かれてるよ。
――きみも俺を好きになれ。
きみも、とは、実近が小牧を好きということだろうか。まさか、と小さく頭を振る。あんなに目立つ遊び人が小牧のような、地味でどこにでもいる男を好きになるはずがない。からかわれただけだ、と答えを強引に出すが、あの日の実近の真剣な瞳が脳裏に焼きついて離れない。本人が言うように酔っていたのか、わずかに熱のこもった瞳だった。思い出すだけで挙動不審になり、スマートフォンを手にとっては置いて、を繰り返す。連絡をしたとしても、なんと言っていいのかわからない。その気持ちが行動に表れる。
あれからも実近は変わらず小牧を食事に誘うが、なんとなく頷けなくなった。気軽に楽しむことができそうにないのだ。
――小牧くんにそれは似合わないと言っただろう?
――本気になるべきだ。
また彼の言葉が頭にまわる。
「いい加減頷いてほしいものだけどな」
「えっ」
デスクに手をついて、小牧を背後から包むように実近が立っている。気がつかなかった。
「今日こそ食事に行こう」
「それは……」
「話したいこともあるし、迎えに来るから」
諾否を言わせず実近は去って行った。やはりひとりだ。とり巻きと言ってもおかしくない女性社員達はどうしたのだろう。
「小牧さん」
実近の背を見送っていたら、女性社員が三人近寄って来た。三人とも目が怖い。
「な、なにか?」
「実近さんの本気って、小牧さんなんですか?」
「え?」
言葉の意味がわからない小牧に、女性達は不躾な視線を送って来る。見さだめられているようで不快とも感じられる視線だ。
「本気の子ができてその子以外見えなくなったって、出流さんが相手にしてくれなくなっちゃったんです」
瞳を潤ませる女性の呼び方は「出流さん」だ。
「出流さんが本気になるなんて信じたくない」
ふたりめの呼び方も同じだった。心がずんと重くなる。
本気――そんなのは信じられないし、その「本気の子」がどうして小牧になるのだ。
「あの、人違いでは?」
「今声かけられてたじゃないですか。今、実近さんが声をかけるのは小牧さんだけです」
三人めは「実近さん」で、どうしてかほっとした。
「どうやって出流さんをその気にさせたんですか」
表情にも態度にも不満を隠さない女性達に囲まれ、身体が竦む。どうやって、と言われても、そんなことは小牧にだってわからない。
とにかく逃げたい、と冷や汗をかいていると、強く手を引かれて囲いの中から救い出された。手を引いたのは実近だった。
「なにやってるの?」
冷えた瞳に、小牧を囲んでいた女性達が顔色を変える。
「す、すみません」
慌てた様子で散り散りに去って行く姿を見てほっとした。助かった。
「すまない」
実近の謝罪が重く聞こえた。彼は神妙な顔で小牧を見つめている。
「迷惑をかけてるか?」
「いえ。こんなことは初めてです」
だから余計に怖かった。今頃になって膝が震えはじめる。
「そうか。なにかあったら隠さず言ってくれ」
小牧の肩を撫でて実近も去って行く。その背を見送り、すとんと椅子に座って震える膝をさすった。
どういうことか聞けなかった。実近がわからない。
ひとりでのランチを終えて部署に戻る途中でスマートフォンが震えた。嫌な予感がするので、きっとそうだ。画面を確認すると、やはり諒だった。最近の諒からの連絡はすべて嫌な予感がして以前のように心が弾まない。震え続けるスマートフォンに、仕方なく通話に出た。
「はい」
『あ、実紘。突然なんだけど、今夜時間ある?』
「なんで?」
嫌な予感は増していく。平静を装う小牧など知らずに諒は声を浮つかせる。
『恵菜を紹介したいんだ』
「そう」
苦い気持ちで了承し、場所を決めた。ふたりでよく行く居酒屋だ。通話を終えて重いため息を吐き出した。
「どうした?」
缶コーヒーを二本持った実近に声をかけられた。まずいところを見られた――そう思って、今さらこの人に強がったところで無駄だと観念した。
「諒が彼女を紹介したいって、今夜会うことになりました。なので食事はまたにしてください。すみません」
「なるほど。俺との約束より諒くんのほうが重要なんだな」
「……」
それに対する答えは小牧の中でもわからなかった。もしかしたら実近から逃げたかったのかもしれない。
「……わかっていたんだけどな」
「え?」
「いや。俺も行こうか?」
一緒にいてくれたら心強いけれど、連れて行く理由がない。関係を聞かれたとき、うまくごまかすことなど小牧にはできない。今の諒は小牧のことなんて気にならないかもしれないが。
「なにかあったら連絡してくれ。すぐに飛んで行く」
実近は手にあるコーヒーの一本を小牧に差し出す。
「あの?」
「今、小牧くんのところに行こうと思ってたんだ」
缶を手にのせられた。小さな重みと反対の、大きな実近の優しさ。
「ありがとうございます」
実近の優しさはわかりやすくて穏やかだ。この人が遊び人ではなかったら、小牧も惹かれていたかもしれない。だが実近にとっては所詮遊び。いずれは飽きられるのだと思うと、素直に近寄れず戸惑う。
不意に女性社員が言っていた「本気」という単語が頭によぎった。それを聞いていいのかわからなくて俯いた。
「店の名前だけ教えて。いざというときにすぐ行けるようにしておくから」
「はい……」
どうしてそこまでしてくれるのだろう――不思議に思いながら店の名前を教えた。いざというときなんてないことを願った。
終業後、電車に揺られて約束の居酒屋に向かった。店内を見まわすが、まだ諒達は来ていない。『先に飲んでる』とひと言メッセージを送ってビールとつまみを注文した。
むしろ諒達が来る前に酔い潰れてしまおうか、とまで考えた。そうしたら現実を見なくて済む。
ため息をついてビールをひと口飲んだ。とても苦くておいしくない。眉をひそめたところに諒と彼女の恵菜が来た。ふたりが並んで座り、小牧は向かい合う。
「お待たせ」
「ううん」
「恵菜、なに飲む?」
諒が自分と恵菜の分の飲み物を注文して、真剣な表情で小牧を見た。
「こちらが、いつも話してる恵菜」
「初めまして」
微笑む恵菜に、「どうも」とひとつ頭をさげてビールを飲む。冷静に、あくまで友好的に。
「こちらが実紘。俺の幼馴染。前に話したけど、小四のときから仲良くしてくれてるんだ」
「いつも諒くんからお話を聞いてます」
ふたりともまだ飲んでいないのに頬を染めている。小牧だけ妙に冷めていたが、気どられないように振る舞った。
甘い空気が漂うふたりに苦々しい気持ちになる。仲良く言葉を交わしては笑う様子を見て、帰りたいのを堪えるためにテーブルの下でこぶしを握った。
「今週末に恵菜を両親に紹介するんだ」
ビールジョッキを落としそうになり、慌てて空いた手で支えた。顔が引き攣る。
「は、早くない?」
向かいに座る諒と恵菜は見つめ合っていて、小牧の様子がおかしいことに気がつかない。
「そうは思ったんだけど、恵菜も乗り気だし、俺もちゃんと紹介したくて」
「そ、そっか」
一生懸命笑顔を作る小牧などふたりには見えていない。苦しすぎて呼吸の仕方を忘れてしまったかもしれない。
「でも、一番に実紘に紹介したかったんだ」
邪気のない諒。喜べない小牧。向かい合うふたりとの間には深い溝があった。小牧が勝手に作った溝だけれど、それを越えられないことがはっきりする。自分は仲良く楽しくなんてできない。一番に紹介したかったなんて、どう喜べというのだ。
諒は残酷だ。ふたりが微笑み合う姿を見て、小牧がどれだけ傷ついているかわかっていない。
そんなふうに考える自分が、小牧自身なにより憎かった。
苦いビールとはりつけた笑顔で時間がすぎていく。痛む胸はぱっくり傷が開いている。そこにふたりは笑顔で塩を塗り込む。
勝手な片想いに勝手な失恋。悪いのは小牧だとわかっている。
「小牧くん」
はっと顔をあげると、なぜか実近がいる。一瞬幻覚かと思ったが、間違いなく本人だった。
「知り合い?」
諒が訝るように実近へ視線を向けた後に小牧を見るので、「会社の人」とだけ答えた。諒は納得して表情を和らげた。
「小牧くんに急遽確認してもらいたいことがあるんだ。申し訳ないが連れて行ってもいいかな」
「そうなんですね。もちろん大丈夫です。大変だな、実紘」
「う、うん……。じゃあお先に」
どうしてこの店がわかったのかとか、どんな用事かとか、諒は関心を持っていない。もとより小牧にそれほどの興味がないのかもしれないと考えて自分で傷ついた。
店を出るときも、小牧は振り返れなかった。
「どうして……」
「心配でじっとしていられなかった。すまない」
「いえ」
情けなく眉をさげる実近に心底感謝した。あの場から逃げられたことに安堵する。
「大丈夫そう……じゃないな」
肩を撫でられて俯く。
「ふたり、仲良くて」
「ああ」
「ずっと仲良くね、って言いながら、心の中では全然祝福できなくて」
声が震える。こんなことは誰にも言えないと思ったのに、実近にだけは吐き出せた。
「……俺、すごく嫌なやつで……」
「そうじゃない。ただ純粋に彼が好きなだけだ」
首を横に振って実近の慰めを否定する。小牧はそんなに綺麗な人間ではない。考えたくないのに、ふたりの笑顔が頭に浮かぶ。
「両親に紹介するって言ってて、もう……耐えられなくて」
涙が溢れて止まらない。実近の車が近くに停まっていて、助手席のドアを開けてくれた。声を押し殺して泣く小牧の肩を、実近の大きな手が抱く。
諒を好きになったことを後悔したくないのに、後悔が襲う。つらすぎる。なにも知らない笑顔は眩しくて残酷だ。
一歩を踏み出さなかった小牧が悪いとわかっている。だが踏み出したら想いは実ったのか。答えは「否」だろう。
「ごめんなさい」
「かまわない」
運転席の実近はまっすぐ正面を見ながら言葉を続けた。
「だが本当にもう忘れたほうがいい」
「……そう、ですね」
冷静になってきたのか、少し涙がおさまった。
小牧の自宅に送ってくれるのかと思ったら、ついたのは実近のマンションだった。
「今は小牧くんをひとりにしたくない」
ただ俯いて、その気持ちを受け入れるとも受け入れないとも答えなかった。わかりやすい優しさに縋ることを覚えた小牧の弱さは、どうしようもない。
「飲み直すか?」
「いえ。そんな気分じゃなくて」
「わかった」
キッチンに行った実近がお湯を沸かす。立ったままその姿をぼんやり見つめた。
「座ってなかったのか。ほら」
「……ありがとうございます」
ティーカップにはベージュのミルクティーが注がれていた。ひと口飲むと、ほわっと温かくて甘かった。それはまるで実近の優しさのようで心がほぐれる。
「俺、迷惑ばかりかけてますね。すみません」
「きみになら迷惑をかけられたい」
また涙がひと粒伝った。
「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか……?」
唇を引き結ぶと、肩を抱かれた。優しいにおいにどきりと胸が鳴る。このにおいも体温も、知らないものではない。
「小牧くんが好きだから、優しくしたいんだ」
実近は迷う素振りも見せず言い切った。小牧のほうが戸惑った。
「どうして……俺なんかを」
「すべてが想定外で興味深いからかな」
実近が笑うので、小牧の口もとも緩んだ。想定外とはひどい言いようだ。
「俺がなにをしてもきみの心には響かない。それがたまらなく悔しいんだ」
「……それは」
「きみは俺を見るべきだ」
まっすぐ小牧に向けられる言葉は重く甘く響いた。
「俺が遊んでいた事実は消せないし、忘れてくれと懇願したところで呆れられるだけだろう」
「まあ……そうですね」
「だから俺のこれからの生き方で小牧くんに誠実を示す。きみだけを愛し続けるよ」
そんなにもきちんと小牧を想ってくれているとは考えていなかった。実近の口から「誠実」という言葉が出たことがなにより驚きだ。
「いつか、ひとりを選ばない理由を聞いたね?」
「……? はい」
「これまで選べるひとりがいなかった。でもきみといるうちに、選ぶことがどういうことかわかった」
唇が重なる寸前まで整った顔が近づいた。
「俺はもう実紘だけだ」
身じろぎひとつで唇が触れる距離。そっと頷いたら深く唇が重なった。実近が求めてくれるままに小牧も彼を欲する。肌が熱くなるままに互いを探り、深く繋がった。
実近の気持ちに応えられるだろうか――涙がまた伝い落ちた。
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