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僕の彼女は、世界一可愛い。
少し泣き虫で寂しがりやだけど……おしゃれさんで、動物が好きで、思いやりに溢れた心優しい女の子だ。
そう。どこにでもいる、普通の可愛い女の子。
……彼女の出自に、少し困った事情があることを除けば。
「……チカちゃん、大丈夫? 入っても平気?」
日曜の朝、俺は彼女が暮らすマンションを訪ねていた。
理由は簡単。今朝方、チカちゃんから「今日のデートはキャンセルにしてください。本当にごめんなさい」とメッセージが入ったからだった。
「返事はなし、か……」
予想通りの状況に、僕はポケットからキーケースを取り出した。
ケースの中で二本並んだ鍵の左側――二週間前のプロポーズの後、彼女から渡されたこの部屋の合鍵だ――を指先で摘まみ、「お邪魔します」と小さく呟きながら鍵穴にそれを差し込む。
かちゃり、軽快な音を立てて鍵が開き、僕は深呼吸をしてドアノブに手を掛けた。
「……チカちゃーん、起きてる?」
踏み込んだ部屋の中は真っ暗で、リビングに続くドアの磨りガラスからも光は差し込んでいない。
廊下の明かりをぱちりと点けて足元を照らし、一旦洗面所で手を洗ってから……僕は意を決してリビングのドアをゆっくりと押した。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは。
フローリングを埋め尽くさん勢いで縦横無尽に横たわる、白く長い筒のような何か。
そしてそれは、とある一点――うなだれるような姿勢でソファの上に蹲る、パジャマを着た女性の肢体、その首にあたる部分から伸びているのだった。
「……やっぱり」
常人であれば悲鳴を上げて逃げ出している光景だが――僕としては、もう見慣れたものだ。
僕は白い筒を踏まないように細心の注意を払ってリビングに立ち入り、テーブルの下に潜り込んだ「それ」を慎重に手に取って抱き寄せた。
「チカちゃん。お返事してくれないから、心配したんだよ」
「……タケくん……」
腕の中から、今にも泣き出しそうな震え声が聞こえてくる。
涙を湛えたつぶらな瞳に、艶のあるコーヒー色のミディアムボブ。
そう、僕が抱き抱えているのは――愛しの彼女の、首だ。
日本には「ろくろ首」という妖怪がいる。
ある日を境に先祖返りが多発するようになったこのご時世、妖怪の血を引いている人間なんて言うほど珍しくはないのだけれど……たまに、生活に支障が出るタイプの発現の仕方をしてしまう人たちも居て。
ろくろ首の血を引いているチカちゃんは、まさしくそのタイプだ。
チカちゃんは、待ちぼうけすると首が伸びてしまう。
例えば、仕事のメール返信が遅くなったときとか。
例えば、お腹を空かせながらカップ麵の戻し時間を待っているときとか。
首を長くして待つ――その言葉の通りに、意思とは関係なしに首が伸びてしまうのだ。
「……それで、今日は何を待ってたの?」
「そ、それは……」
並んでソファに座り、チカちゃんの白くて小さな顔を膝に乗せながら問い掛ける。
すると、チカちゃんはとても恥ずかしそうに頬を赤らめた後、もじょもじょと小さな声で答えてくれた。
「……デートが、楽しみで……気がついたらこんなに伸びちゃって」
「そっかあ……っふふ。こんなに楽しみにしてくれてたの、嬉しいよ」
僕にそう言われてぽっと体温を上げる顔は、いつも通り可憐で愛らしい。
可愛いね、と言って頬を撫でれば、その温度はさらに高くなった。
「まあ、概ね予想してた通りだから大丈夫。今日は部屋で映画でも見ながらお家デートにしよう」
「タケくん……ありがと……」
「いえいえ。それじゃあ、お昼作るね。今日はチカちゃんの好きなカルボナーラを作ってあげようと思って、先に買い物してきたんだ」
「えっ!?」
ずしっ。
きゅるるる……。
「…………」
「…………」
膝にかかった重みと、呆気にとられた顔。
そして、追い打ちの腹の虫。
……彼女の首が、待ち遠しさを表すかのようにぐんと伸びていた。
「……すぐ作るから、待っててね」
「……ご、ごめんなさいぃ……!」
ああ、可愛いなあ!
とても素直に首を伸ばしてしまう彼女が愛おしくて――僕は、またしても笑みをこぼすのだった。
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