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手をのばす
あなたは気付いていないのよね。
あなたの彼女がいつも私に嫌がらせの電話を架けてくることを。
私はあなたの妻なのに、なすすべなく、せめて電話を切ること位しかできない。
あの最初の電話の日から、私は眠っているあなたの首に何度手をのばしたことか。
あなたは酔って帰ると必ず水を飲むから。その水の横に
「二日酔い止めの薬よ。」
と、書いて睡眠薬を置いているのに、私を信じてその薬を飲んでいるのよ。
だから、きっと、私がいびきをかいているこの男の首へのばした指に力を入れても抵抗は少ないと思うわ。
だって、ふつうに眠っていたら気づかれてしまう。
男と女。どっちが強いかわかるもの。
あなたは酔っているのに必ず湯船につかるのよね。
そして、少しだけまどろむの。
私は何度も想像して、バスルームまで思考の糸をのばしたわ。
酔って眠っているのだったら私が浴槽に沈めたら、そのまま沈むのではないかと。
今日こそ。
今日こそ。
私だって、軽くはないから全体重で乗っかれば溺れてしまうのではないかと。
毎日毎日、どうやってあなたに手をのばして命を立とうかと考えたわ。
でも、どちらもできなかった。
だって、そんなやり方では、私があなたを殺したって言う証拠が残ってしまうから。
人殺しの母親なんて、きっと子供達を困らせるだけだから。
いつものように夫の帰宅が遅かった日。
クリスマスだから早く帰ると言っていたのに。
子供もご飯を我慢して待っていたのに、あなたは連絡もなく帰宅してこなかった。
でも、相手の家にも泊まれないらしくて、かならず帰宅はするの。
私は、私の手首に、長くのばしたカッターの刃を当てたわ。
いつもの事。何度もしている事。普通のリストカット。
そう思ってカッターを引いたのだけれど、その日はちょっと強く引きすぎたみたい。
血の筋が手首からのびて肘を伝わって床に落ちたわ。
私は、その日は、もうそれでもいいと思ったわ。
でも、きっと、夫は私を見付けても放っておくのだろうと思ったわ。
そうすると、朝起きた子供達が私を見つけることになる。
それは、だめ。
私はハッとして、急いで傷をタオルでグルグル巻いて、救急病院を調べて、タクシーを呼んだの。
どうやらその間に床の血も拭いたらしいわ。よく覚えていないのよ。
上の子だけ起して
「お母さん、ちょっと病院へ行くからね。起きて誰もいなくても驚かないで。」
と、告げて、一人で救急病院へ行ったわ。
「腱が切れていなくてよかった。」
縫合した医師にそう言われるほど深い傷だったので、10針ほど縫ったようだったの。
タクシーで帰宅したとき、午前2時。
夫はまだ帰宅していなかったわ。
上の息子に帰宅したことを告げて、眠りについたわ。
朝は、包帯を巻いた手にビニールをかけて、朝ごはんを作るために冷蔵庫に手をのばしたわ。
息子たちは、二人で朝ごはんを作るから休んでていいよ。と言ってくれたわ。
夫はいつの間にか帰宅していて、朝起きても私の手を見てもいないのか、大きく巻かれた包帯に関しては何も言わなかったわ。
そして、息子二人が作った朝ごはんを食べて職場へ行ったわ。
私の手は色々な所にのびていたのに、結局あなたをどうにかすることはできなかった。
心の中でも何度もあなたを殺めるために手をのばしたのに結局何もできなかった。
私はこれ以上一緒に居たら、子供に私の死体を見せてしまうと思って離婚を申し出たの。もう、ギリギリの心になっていたから。
離婚届を渡すときにあなたにむかってのばした手をあなたは不思議そうに見つめていたわね。
「離婚なんて何でいうの??」
私の、のばした離婚届を持った手を、この世で一番恐ろしい物を見たようにあなたは言ったわ。
『どういう思考でそのセリフが出てくるの?』
私が何度心の中で、この手であなたの首に手をのばしたか。
何度浴槽に沈めようとして手をのばしたか。
そんなことは鈍感なあなたは気付いてもいないのね。
でもね、もういいわ。あれから20年以上過ぎた。
私は今、私の好きなものに手をのばす。
猫たち。お庭の草花たち。愛する人への食事の用意。
のばす私の左手には沢山の傷がついているけれど、これも、みんなもう昔の事。
愛するものにしか、もう手をのばさないと決めた私の手は、今幸せに輝いているの。
【了】
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