三話 3年間の思い

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三話 3年間の思い

「ルシンダ嬢が嫁いでくるまで、残り1年間しかない。それがお前の猶予期間だ。幸いなことに、お前は勉強熱心で頭がいい。私も付きっきりで教育をする。出来る出来ないじゃない、やるんだ」  父から強めの言葉をかけられ、トマスは二の句が出ない。 「ルシンダ嬢の王都観光は、今しばらく待ってもらおう。何しろ婚約者が変わってしまうからな。私もしばらくは、あちこちへ頭を下げねばなるまい」  その頭を下げる相手は、レディントン侯爵家だけではなく、セルザム子爵家も含まれているのだろう。  アダムを冷たく切り捨てた父だが、完全に見放したわけではないのだ。 「……私では、分不相応です」 「そう思うなら努力をしろ。後継者としての話ではない。婚約者としての話だ。相手に見合うだけの自分になれ」  あの美しいルシンダに、トマスがどうやったら見合うというのだ。  トマスが絶望に顔を暗くしていると、父がより具体的な発破をかけてきた。 「まずは体を鍛えて引き締めろ。社交界で通用するだけのダンスの腕前、淀みなく隙のないエスコート、しゃれの効いた会話、流行りを踏まえて伝統を重んじるファッション。どれも学べばなんとかなる。そうだ、黒縁眼鏡は縁なし眼鏡にしてはどうだ?」 「父さん……」 「父上と呼びなさい。後継者になるのならば、いつまでも甘えた呼び方では駄目だ」  そこでトマスは初めて、自分が甘えた呼び方を許されていたのだと知った。  アダムは父のことを、父上と呼んでいた。  アダムはアダムなりに、トマスの見えないところで、後継者として厳しい教育を受けていたのかもしれない。  アダムをうらやむばかりだった未熟な自分を、トマスは心から恥じた。  父の愛は、次男の自分にも、違う形で注がれていたのだ。  トマスは父の言う通りに、精一杯の努力をしようと思った。   「はい、父上。ご指導よろしくお願いします」  ◇◆◇  ルシンダからの手紙は途絶えた。  それが気がかりだったが、婚約者がアダムからトマスに代わったのだ。  ルシンダだって、戸惑っているのだろうとトマスは思った。  あえてトマスの肖像画は送らなかった。  今の外見をルシンダに知られるわけにはいかない。  トマスはあの日から、ルシンダに相応しい男に変わると決めたのだ。    トマスは父に付いて、領地と王都を往復しながら、熱心に領地経営を学んだ。  ラドフォード伯爵家の繁栄が、ルシンダの幸福にも繋がっていると、分かっているからだ。  決して落ちぶれたり舐められたりするようではいけない。  ラドフォード伯爵家ここにありと、いついかなるときも胸を張れるようでなくては駄目だ。  そのためには、トマスがしっかりとした後継者として、立たなくてはならない。  ルシンダのためだと思えば頑張れた。  体を鍛えることも、ダンスを練習することも、夜会に出席することも、全て苦にならなかった。  ラドフォード伯爵家の後継者として、恥ずかしくない振る舞いが出来るようになった頃、約束の1年が過ぎた。  ついにルシンダが王都へやってくる。  今度は観光ではない。  トマスと結婚するためにだ。  トマスはこの日を、指折り数えて待っていた。  肖像画で一目惚れした16歳のルシンダを思い浮かべる。  手紙の中でキラキラしていた19歳までのルシンダを恋しく思う。 「ルシンダ嬢、あなたに会いたい」  ◇◆◇  今を時めくラドフォード伯爵家の若き後継者トマスは、短く切りそろえた茶色の髪と涼し気な青い瞳が素敵だと令嬢に人気で、才知を感じさせる縁なし眼鏡は、精悍な顔を引き立てる装飾のひとつとなっていた。  かつてはデブ眼鏡とアダムに罵られたトマスだったが、鍛え上げられた筋肉は正装の布越しに盛り上がり、強健なトマスの体躯を眺めては未亡人や人妻が熱っぽい溜め息を漏らしている。  そんな注目の的のトマスは今、ルシンダを乗せた馬車の扉の前にいた。  ついにルシンダが領地から、王都のラドフォード伯爵家にやってきたのだ。  二人の結婚を祝って、大広間には大勢の貴族が待ち構えている。  トマスはルシンダを会場までエスコートして、そこでファーストダンスを踊らなくてはならない。  ドキドキと高鳴る胸を押さえ、トマスは馬車の扉を引いた。  頭を下げて手を差し伸べ、そこにルシンダが手を乗せるのを待つ。  その手に、ふわりと、温かい手のひらの熱を感じた。  嬉しくてきゅっと握ると、思いのほかふかふかと柔らかく、トマスにとっては懐かしい感触がした。   「ようこそ、ルシンダ嬢。お会いできるのを、ずっと心待ちにしていました」  トマスはルシンダを驚かせないように、ゆっくりと顔を上げた。  そして20歳のルシンダと対面したのだ。  ◇◆◇  19歳のルシンダは、己の身にふりかかった災いを、正しく理解することが出来なかった。  これまで3年間、文通を重ねて仲良くしてきたつもりのアダムから、突然に婚約解消を申し出られたのだ。  さらに、今度はアダムの弟のトマスと、婚約を結ぶことになった。  元々、レディントン侯爵家とラドフォード伯爵家との政略結婚だ。  すげ替えられても、何もおかしくはないのだが、ルシンダは悲しみに暮れた。  それだけアダムに心を寄せていたのだ。  いつもルシンダの手紙に、丁寧な返事をくれたアダム。  素敵な飾り文字で、ルシンダの名前を彩ってくれた。  星であったり、花であったり、ルシンダが手紙に書いた話題を、それとなく使ってくれた。  そしてアダムのサインにも、ルシンダと対になるような飾り文字を使ってくれた。  なんだか二人の心が繋がっているようで、とても嬉しかった。  相思相愛とまではいかなくても、よい夫婦になれる予感がしていた。  ところが結婚まであと1年というときに、アダムはほかの令嬢を愛し、子を作ったのだという。  裏切られた、騙された、と思った。  ルシンダはそれから食欲を制御できなくなり、泣きながら菓子を貪るように食べ始めた。  とくに夜、寝る前がひどくて、食べ過ぎて吐くこともあった。  吐いてしまうと胃が空っぽになり、それが不安でまた詰め込むように食べる。  その繰り返しでほっそりしていた体形は、あっという間に丸くなった。  もうどのドレスも着られないほど太ってしまったとき、新しい婚約者のトマスから手紙が届いた。  王都での結婚式の日程を知らせる手紙だったが、ルシンダは内容よりもその文字に目が釘付けとなる。  ルシンダの名前が、たくさんのハートで飾られていた。  言葉よりも何よりも、強烈なメッセージだった。 (――あの手紙を書いていたのは、アダムさまじゃなかったんだ)    ルシンダは、これまでの文通相手がトマスだったと知る。  そこから急ごしらえでドレスを製作した。  毎日のように寸法が大きくなっていたので、今まで仕立てられなかったのだ。  だが、ルシンダは手紙を受け取った日から、菓子を貪り食べるのを止めた。  ここぞとばかりにレディントン侯爵家のお針子たちは、清楚なドレスを完成させる。  その力作の白いドレスを着て、20歳のルシンダはトマスの前に立つ。  ◇◆◇ 「兄の婚約者だと分かっていても、あなたのことが恋しかった。罪深い私を、どうか許してください」  赤ちゃんのように福々しいルシンダの手に、トマスがキスを落とす。  16歳の肖像画とは似ても似つかぬルシンダを前にして、トマスはうろたえない。  銀色の流れる髪が結い上げられ、体と顔の間に存在するはずの首が、ただのシワと化していることを顕著にしていても。  トマスが肖像画で見とれた麗しい緑の瞳が、頬肉と厚みのある瞼に邪魔されて、元来の半分しか見えていなくても。  顔を赤らめてトマスの前に立ち、しっかりとトマスの瞳を見つめ返してくるルシンダを、トマスは心から愛しいと思った。 「さあ、会場へ行きましょう。私の大切なあなたを、皆に紹介させてください」 「あ、あの……私、こんな外見ですけど、いいんですか?」 「とても可愛らしいですよ。でも、もしルシンダ嬢が気にされるのでしたら、父に私の過去の話を聞いてみてください。今のあなたの比ではありませんでした」 「え? トマスさま、太っていらしたのですか?」 「そうですよ。父に甘やかされて、私はたいへん太っていました」  今ならば分かる。  後継者ではなかったトマスは、かなり自由にさせてもらっていたのだ。  それこそ、アダムが自由に憧れ、うっかり羽目を外してしまうほどに。   「私はどんなルシンダ嬢のことも大好きです。だから今の自分を決して卑下しないでください」 「わ、かりました。それと……お手紙に、いつも素敵な飾り文字を描いてくださって、ありがとうございました」 「――私の気持ち、伝わりましたか?」  トマスは間違いなく、ハートだらけだった最新の飾り文字のことを言っている。  それが分かってルシンダはますます赤くなった。  3年間の文通は無駄ではなかった。  通わせた気持ちが、確かに今ここにある。 「はい……私も、同じ気持ちですから」  ルシンダの告白を聞いたトマスは、我慢できないとルシンダを両腕で抱きしめた。  強靭なトマスに抱えられ、丸くて太ましいルシンダが宙に浮く。 「こんな日が来るなんて。ずっと、片思いで終わるのだと、覚悟をしていたのに」  ぐすっと洟をすする音がした。  トマスが泣いているのだろう。  感涙して震えるトマスの背に、ルシンダは丸太のような腕を回した。  いつまで経ってもやってこない花婿と花嫁を迎えに、ラドフォード伯爵が大広間を抜け出してくるのはもうすぐ――。
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