今夜、丸の内レタークラブで

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「西日暮里、千代田線にそんな駅あったっけ。あ、あるか」 通勤ラッシュの雑踏の中、沙凪子は深い眠りから目を覚ました。各駅停車の千代田線の揺れは、眠るにとても心地よく、座席に腰を下ろすと知らぬ間に眠りに落ちてしまう。大手町での乗り換えまで、まだしばらく眠れると、沙凪子は幸せをかみしめた。 大手町で半蔵門線に乗り換えるために下りのエスカレーターに乗ると、決まって、集団から外れて一人上りのエスカレーターで千代田線のホームへと上がって来る男性とすれ違う。二人はここ数ヶ月、上りと下りのエスカレーターで毎日同じ時刻に同じ場所で出会っている。 沙凪子は、次第に彼の存在が気になって仕方がなくなっていた。彼も沙凪子の気配に気づき、意識するようになっていた。お互いどちらかが電車を一本遅らせれば出会うこともなくなると分かっているが、何らかの理由をつけてそれを避けている。お互いがお互いを意識し始めたら、もう終わりだ。 沙凪子は意を決して彼に手紙を書いた。 「毎日暑いですね。すごく悩んだのですが、自分自身一歩前へ進もうと思い手紙を書きました。ご迷惑でしたら本当に申し訳ありません。とても不思議なのですが、朝会うととても嬉しいです。そんな日がずっと続いています」 そして、その手紙には「夜はいつも丸の内のレタークラブという店にいます」と記し、自分の勤務先の名刺を同封した。 その日、沙凪子は大手町の千代田線のホームで彼を待っていた。やがて彼が現れたが、胸が苦しくて「読んでください」と声をかけることができず、無言のまま手紙を渡してその場を去った。 レタークラブは丸の内仲通りに面したビルの地下にある沙凪子の馴染みのバーだ。店の中央には真っ白なグランドピアノが置かれており、オーナーの古川は短髪を横分けに整え、白いワイシャツの上に青いセーターを着て蝶ネクタイを締めている。 「いらっしゃい、今日は珍しいわね。2名様で予約なんて」 「ちょっとね」 古川にソファ席を勧められたが、沙凪子はカウンター席に座った。 「どなたか来られるんじゃないの?」 と尋ねる古川に、これまでの経緯を全部話すと、 「沙凪ちゃんにしては随分と思い切ったことしたじゃない」 と楽しげに笑っている。 「でも無言で手紙を渡すのは良くないわ。それに、初めて話しかける人に渡すお手紙なんだから、書き出しが『暑いですね』もだめよ。せめて『声をかけて良いのかどうか迷ったのですが…』のような書き出しにすれば良かったんじゃない」 「そんなの気持ち悪いわよ」 「どっちにしたって見ず知らずの人に話しかけて手紙を渡すなんて気持ち悪いことしているんだから、せめてもと思っただけよ。ちょっとしたことが、人生の大きな分岐点になるかもしれないんだから」 手紙を渡したことを気持ち悪いと言われても冷静に考えれば全くその通りだと思った。 それからノンアルコールのカクテルを頼み、暫くしても、よく考えれば何ら不思議なことではないものの、彼が訪れる気配はなかった。そして、古川に彼がどんな人か尋ねられても沙凪子は結局「よくわからない」と答えるしかなかった。 見かねた古川が「今日はもう帰りなさい」とピアノを弾き始めた。 沙凪子は古川のピアノを聴きながら、北風に向かって歩いていても、知らず知らずの内に間違った方向に進んでしまうこともあるのかもしれないな。苦しい早く夢から覚めたい、と考えていた。そして、古川のピアノが終わると同時に店を後にした。 翌日、紗凪子がレタークラブを訪ねると、古川はカウンターで氷を割りながら沙凪子に話しかけてきた。 「ハンサムね、彼。松下さんって言って、3歳になるお嬢さんがいるらしいわよ。昨日、沙凪ちゃんが帰った後に来たのよ。私と話して一時間くらいここにいたかな」 沙凪子は呆然と立ち尽くしたまま「ズレている。なんで時を掴めないのだろう」と呟いた。 古川は一息ついて、少し早口に声を上げて「ズレている方が沙凪ちゃんにとって良いことだから、ズレているのよ」と続けた。 「そうかな」 沙凪子は涙でいっぱいの顔を両手で覆って笑った。 「古川さんのピアノは、人の感性に突き刺さる」 「そう?私はいつも自分のために弾いているだけで、誰かのためになんて考えたことがないから、よくわからないけど。そう言ってもらえると嬉しいわね」 「本当、古川さんのピアノは、いつも優しくて、温かくて、繊細で、これ以上ない響きで、魂がこもってますよ」 「あはは、本当にそう思ってる?」 「思ってますよ」 「じゃあ、私も言わせてもらいますが、沙凪ちゃんの、そのゆったり感は、かけがえのない良さよ。ほっとけないわ」 「えっ?」 沙凪子はしばらく古川を見つめたまま固まっていたが、少し間を置いて、 「ありがとう」 と呟いた。
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