02 変異者等規制法

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     *  最上階。ガラス壁ごしに淀川が見える。テニスコートがとれるほどの社長室だ。  微かに聞き取れる音量でシューベルトの七番が鳴っている。オーボエとクラリネットが翳りのある主題を奏でる。 「気が滅入らないか? こういう曲は」応接セットで社長に向き合う。 「先代がいつも聴いていた曲です。哀しみを忘れないように、って。そう秘書に聞きました」  ECHIGOYAを巨大複合企業(コングロマリット)に育てたのは、カリスマ経営者と呼ばれた先代社長、鷹峰 政虎だ。他界して二年。現在は、娘婿の桂が継承している。古株重役陣に支えられながら堅実な業績をあげている。  政虎はある男に妻を奪われた。それが原因で一人娘の凪沙(なぎさ)と不和になった。最期に和解できたものの、長い歳月を哀しみと共に生きたのだ。  〈あたかも、地下の世界から湧き上がるような〉──そう評された旋律は政虎の心情を代弁し、部屋の空気に哀しみを添えていた。人生とはそういうものだ、と諭すように。 「世に哀しみを拡げないための事業をする。それが先代の晩年でした」後継の社長は感慨深げに言う。  若き日の政虎は、獣のごとく、他者(ひと)を踏み台にしてのし上がった。その反動のように晩年は善行を積む。  自社の通信衛星を、人道のためとあれば無償提供した。多方面への寄付や後援を惜しまず、私費分は匿名であったという。  政虎を偲ぶ。その二面性は、どちらも彼自身であったのだ。  届いたコーヒーに口をつけ、シュウは重い口を開いた。「楽しいハナシではないんだ」 「わかってます」ベンケイの顔が険しくなる。来意は承知しているようだ。 「ここのセキュリティは?」 「盗聴不能。ゼロ課なみです。安心してください」  シュウはひと呼吸おいた。「法案の審議が始まりそうだ」  ベンケイはため息をついた。「やっぱり」 「家族はどうした」 「凪沙と子供はに出しました。万が一に備えて。国外です」 「──そうか」  シュウはこれまで標的を狩ってきた。政府の非公式機関――ゼロ課に所属する特務員(エージェント)として。だがこれからは、おそらく狩られる側になる。 「どうするつもりです?」盗聴不能にもかかわらず、ベンケイは声をひそめた。 「逃げる」 「本気ですか?」  頷く。「よくて終身刑。ヘタすりゃ実験材料だ」 「そんな……アニキがどれだけ世界の危機を救ってきたか」 「アマい希望など持たぬことだ。歴史を見ればわかる。国家というやつは、英雄さえ反逆者に仕立てる。罪の捏造などたやすい」 「ちくしょう。民主主義は何処へ行きやがった」 「必死なんだよ。テロ以来、人類はヒステリックになっている。の者に対して」 「くそッ。オレたちは人類の敵にされるのか……」ベンケイは絶望を吐き捨てた。
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