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私は会社から帰る時、たまに気分転換と称して普段あまり使わない路線で帰る事がある。
数日前も仕事上でトラブルがあり、気分を変える為に平時は乗らないH線で帰路に着いた。
乗車した駅が始発駅に近かった為か、まだ幾らか座席に空きがあり、座席の確保に成功した私。
そうして、私は電車に揺られながら、車窓から見える夜景に目を向けた。
と、電車が、私が乗車した駅から5つ程先の駅に停車した際、見るからに変わった風貌の若い男性が車内に乗り込んで来る。
かなり派手なサッカーのユニフォームらしき物を着た男性。
彼はそこそこ大きなハイキングバッグを背負っており、ランタンの様な形の水筒を腰から下げていた。
この様に、男性は一見するとソロキャンプにでも行く様な様子であったが――その顔色はかなり悪く、表情は常に渋面を浮かべている。
まるで苦虫でも噛み潰しているかの様な渋い表情を浮かべたまま、電車のドアの横にあるスペースにもたれかかると、深いため息をつく男性。
その様相に何となく異質なものを感じ、私はつい彼を目で追ってしまっていた。
と、電車がトンネルに入り、車窓に写る景色が黒一色になった瞬間、彼は急にパニックを起こすと、ガタンッと派手な音をさせ、いきなり床に膝をつく。
そうして、そのまま両手を伸ばすや、床に額を擦り付けると、目の前の電車の扉に向かって土下座を始めたではないか。
「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい」
壊れたテープレコーダーの様に延々とそう繰り返しながら、扉に土下座を続ける男性。
私はその様子を見つめながら、
(もしや、酔っ払いか、心の病気の方なのだろうか)
と、思っていた。
直後、降りる駅が近付いた為、私はゆっくり立ち上がると、そっと男性の後ろを通り、別の扉を目指して歩いていこうとする。
流石に、あの男性の横を通って彼が土下座をしている扉から降りる勇気は私にはない。
と、彼の丁度真後ろを通り掛かった瞬間――。
私は、彼が土下座をしている電車の扉……そのトンネル内であるが故に漆黒に染まったガラス窓に、まるでスクリーンの様に映し出されている女性の姿を見てしまった。
相当に怒っているのだろう、かなりの凶相で男性を睨み付けている女性。
理由は分からないが、恐らく男性はこの女性にずっと土下座をし続けていたのだろう。
女性は男性を許す気は全く無いらしく、ぎりぎりと唇を噛み締め、男性を睨み続けていた。
勿論、窓の向こうはトンネルの壁だし、男性の後ろには誰も立っていないので、後ろにいる女性が映り込んだという事も無い。
男性の目の前にある電車の扉の硝子窓にだけ映っている女性。
私が降車する際、電車は明るいホームに停車した為、一旦窓ガラスに女性の姿は映らなくなる。
が、それでも――最早、男性の瞳には女性の姿が焼き付いてしまったのか。
男性はひたすらに、電車の扉に向かって土下座を続けていた。
私はその後、その路線は使っていない。
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