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サングラスはかけててください
通勤時、毎朝使うバス停に、とてもとてもガラの悪いおにいさんがいた。
この閑静な住宅街ではあまり見かけたことがない派手な柄シャツに、色のついたサングラス。今日は曇りですが。
そして近づくほど分かる、スラッとした体躯と長い脚。俯くその顔は一瞬人形かなと思うほど整っていて、グレーっぽい髪からちらりと見えた耳には、きらきらと光るものがたくさんついていた。ピアスだろうか。…多いな。
何ていうか、全体的に存在感がすごい。ものすごく目立つ。オーラというのか、彼の周りだけ空気が違う気さえしてくる。まさか撮影か何かだろうかとちょっと身構えて辺りを見回すも、カメラマンもテレビ局っぽい集団もいない。
一見取り立て屋さんかなってくらい派手で、いやいやモデルさんかもってくらいきらきらしたそのおにいさんは、ビクビクする俺なんかに構わずじっとスマホを見ていた。
まぁ、いくら派手だからって見た目で決めつけるのも良くないなと思ってバスを待つべく隣に並ぶ。
いやめっちゃ背高いな、改めて。心なしかいい匂いまでする。
…くたびれた自分とは全然、世界が違うような気がしてくる。
今日は休日で、残念ながら俺は休日出勤というやつで、平日よりバスを利用する人はうんと少ない。つまり何が言いたいかっていうと、バス停には俺と派手派手なグラサンのおにいさんの二人だけだった。…マジかぁ。
まぁ、別に知り合いでもないし話すこともないしなぁと思ってポケットからスマホを取り出そうとした時…隣、正確には斜め上から「あ」と声が降ってきた。声の主はもちろん他の誰でもない、隣に立っていた彼である。派手派手のおにいさんは何かに気づいたような声を出してからじっと、グラサン越しに俺を見つめていた。
「今日土曜日なのに、スーツなんだね」
「………はあ」
「これから仕事?」
「まあ」
フレンドリーだな。というか、知り合いみたいに話し掛けてくるからびっくりした。彼の手からはもうスマホは消えていて、グラサンの向こうの何色か分からない瞳は俺をしっかり見据えていた。怖いとかは、ないけど。どう反応すればいいのか分からない。
何だかちょっと非日常な感じ。
非日常は構わず困惑する俺に話し掛け続けてきた。
「休日出勤ってやつ?大変だねぇ」
「どうも…」
「てかちゃんと寝てる?クマすごくない?」
「いや…」
おどおどと曖昧な返事しか零せない俺の長い前髪を、すらりとした白い指がそっとかき分けた。突然の接触に驚いて、思わず肩がビクッと跳ねる。その様子を見ていたおにいさんは「あ、ごめん」とすぐに手を引っ込めてくれた。距離感がおかしいみたいだけど、一応常識はあるらしい…。失礼かもだけど。
「てかいきなりこんな知らん奴に話し掛けられてビビるよな」
自覚あったんだ…。
「自覚あったんだ…」
「え」
「あ」
やべ、口に出ちゃった。きょとりとする顔が一瞬幼く見えた気がしたが、見惚れている場合でもないなと思いすぐに「すいません」と小さく謝った。すると彼はぱあっと破顔して、何でもないことみたいに続けた。
「そうやって意外と意思表示ちゃんとするとこ、すげーいいと思うよ。たまに心配だけどなぁ」
「はぁ。…ん?」
その口振りだと、前にも会ったことがあるみたいじゃないか。
「あの、もしかして前にどこかで…」
「あ、バス来たっぽい。んじゃあね」
「え、乗らないんですか?えぇ…?」
バスが来ると、おにいさんはひらひらと手を振って乗らずにどこかへ行ってしまった。乗らないのに、待ってたのか。一体何を?
…誰を?
もしかして彼とは以前に会ったことがあるのか?でももし仮にそうなら忘れるはずがない。あんな存在感が服を着て歩いているようなひと…。ううん、全然記憶にないぞ…。
そうしてもやもやしたままバスに揺られ、休日の労働を終えてプリンを買って家路につく。その頃にはもう今朝の記憶は曖昧になっていて、あれは疲れが見せた幻覚だったんじゃないかと思うようになった。だってそうじゃないか。服装があれじゃなければ、妖精とかエルフとか言われても納得するくらい綺麗なひとだったんだから。
「…サングラス取った顔も、見てみたかったなぁ」
ぼんやり零した呟きは布団がすっと吸い込んで、暗い部屋に消える。あの香りのせいだろうか。なんだか今日はよく眠れそうな気がした。
そんなちょっとした非日常があっても、日常がすぐにやってきて塗り潰してしまうものだ。
月曜日の朝、平日とあって人が多いあのバス停に目立つ彼の姿は見当たらなくて、やっぱりあの時限りのきらきらした非日常だったんだと知る。どこか落胆しているのはどうしてだろう。そこまで楽しく会話した記憶はないのに。
火曜日、やっぱりまだ面影を探してしまうが、その日一日のやらねばならないことに思考を奪われて、帰る頃にバス停を見てまた思い出す。けれど顔はもう思い出せない。
水曜日。週の真ん中に休みを設けてほしいなんて毎週思いながら、あの日の一瞬ともいえる出来事についてはほとんど考えなくなっていた。
最終のバスに何とか間に合って、ふと車内にサングラスの人がいないか探してしまった。サングラスの人どころか、乗客は俺一人だったけれど。
そうして過ぎてゆく木曜日、金曜日、彼と出逢った土曜日。段々と思い出すこともなくなって、休日出勤ではなかった土曜日もバス停に行くことはなく。日曜日が過ぎ、たったの一週間であの非日常はほとんど淡く薄い思い出になっていた。
それから次の月曜日、いつもの時間にバス停に着いて、混み合うバスにたまたま一つ空いた席を見つけた。誰も座らなさそうなその席に恐る恐る腰を下ろすと、頭上から「おはよ」と声が降ってきた。いや、俺に言ったわけじゃないだろう。きっと誰か友達同士がこのバスで偶然会った、とかで…。
「おはよーってば。サングラスしてないと分かんない?それとも髪色かな?あぁ、一週間振りだから忘れちゃった?」
「えっ」
ハッと顔を上げると、そこには背の高いスーツ姿の男性が立っていた。黒髪で、サングラスをかけていない瞳はやや薄いグレーだ。一瞬誰かと思ったけれど、この美貌…。よく見なくても、つい一週間ほど前にバス停で会った、あの派手派手おにいさんそのものだった。
「おはよう、ございます…?」
「ふふ、おはようございます」
うん、やっぱりあのおにいさんだ。でもどうしてこんなところで、そんな…スーツ姿なんだろう。俺の視線の意味に気づいたのか、彼が親切に説明してくれた。
「今日はおれも仕事、しかもすごい重要な日なの。だから黒いの」
「えと…どっちが本当?ですか…?」
「髪色のこと?こっちはウィッグで、土曜日のが染めてる方。平日はこんな感じなんだよー。ダルいよね」
「はぁ」
「こんな」、とはかっちりしたスーツ姿のことだろうか。分かんないけど、オンとオフでギャップがありすぎる…。でもこれはこれで、真っ黒なサングラスでも掛けたらちょっと裏社会な感じが出てしまう気がするが…。それはこのひとの雰囲気がそう見せるんだろうか。黒いスーツに黒いサングラス。想像して、ちょっとくすりと微笑ってしまった。逃走しても脚が長いから逃げきれなさそうだなとかまで考えているところで、俺の頭上でもくすりと吐息が零れる音がした。
「笑った顔、初めて見れた」
「あの…俺と貴方って、どこかで会ったことありましたか?」
「あぁそっか、ゴメンゴメン。なかったよね」
「え」
「おれが一方的に知ってたの。一回話してみたくてさぁ」
「………なんでまた」
意味が分からなくて首を傾げるが、そこでバスが目的地に着いたようで、ぞろぞろと人々が出口に向かって動き出した。俺もここで降りなければ。そう思い鞄を持ち直していると。
「降りよっか」
「あれ、貴方もここですか?」
「まぁね」
スマートに人混みを避けてバスから降りると、彼が俺に向き直った。
「そういやこないだ言い忘れてたことがあってさ」
「なんでしょう…」
真剣な話でもするみたいだ。スーツ姿なだけに、少し緊張してしまう。あの派手な柄シャツの時も別の意味で緊張はしていたけども。
一体何を言われるんだろうと身構える俺を見下ろしながら、彼はふっと口角を緩めて、言った。
「おれのばあちゃん、助けてくれてありがとね」
「あぁ、えと………おばあさん?」
誰のことだと一生懸命思考を巡らせるも、パッとは思いつかない。誰だ、おばあさんて。もしかして人違いなんじゃないか?俺じゃない誰かと俺を、このひとは間違えているのでは?
「覚えてない?二週間くらい前だったかな…。バスで席譲ってもらったんだぁってばあちゃんが話してくれてさ。しかも足の心配までしてくれて、めちゃめちゃ良い子だったんだよーってすげぇ嬉しそうだったよ」
「えぇっと…。あぁ、そういえば」
席、譲ったかも…。バスに乗り込んできたそのおばあさんは確か両手に大荷物で大変そうで、でも平日の帰宅ラッシュでバスはまあまあ混んでいて、座る場所がなさそうで困っていた。歩き方がちょっと気になったので、足が悪いんじゃないかと思って声を掛けた気がする。何を話したのかとかもうほとんど覚えてないが、そんなことがあったなぁ。でも、本当にあのおばあさんのお孫さん?このひとが?
「思い出した?」
「多分…。でも、お孫さん?にまでお礼を言われるようなことでは」
「言われるようなことだよ、ありがとう」
「…どうも、こちらこそ」
律儀だな。そんなに特徴があるわけでもないだろうに、どうして俺だと分かったんだろう。お孫さんに正確に俺のこと伝えたのかな。おばあさん記憶力すごすぎやしないか。
というか、二人揃って律儀すぎでは?あのおばあさんにもこれでもかってくらい、それこそ恥ずかしくなるくらいお礼を言われたのに。
「はっ、もしや土曜日はそのことでわざわざバス停まで?バスに乗らないのに?」
「まぁ、あれは単純に話してみたくて。休日出勤は大変だったろうけど、会えて良かったよ」
「何もおもしろい話なんてできなかったですけど…すいません」
「何で謝んの、楽しかったよ。今もね」
変なひとだ。あの日、俺は「はぁ」とか「まぁ」とか、曖昧な返事くらいしか返せなかったっていうのに、そんなんでも楽しかっただなんて言ってくれる。本心かどうかは別として…あ、本心だこれ。
サングラスがない瞳を直に、しっかり真っ直ぐ見てしまって、いくらネガティブな俺でも彼が嘘を吐いていないらしいことが分かってしまった。きっと彼の言葉は全て本心だ。
「楽しい、ですか。俺、会話上手くないのに」
「楽しい。いかにもチンピラな男に話し掛けられながらもおどおど律儀に返事してくれるとことか、小動物みたいで」
「ひぇ…」
変なひとだ。というか、ヤバいひとだった。
そんなこと考えてたのか…!結構意地悪だな?
「そんな目で見ないで。もっといじめたくなる」
「ひぇ…近寄らないでください」
「ゴメン、ガチの拒否は傷つくわ。いじめないからこっちおいで」
「おいで」という言葉とほぼ同時に肩がくいと引き寄せられた。過剰なスキンシップかと思いきや、タイミング良く?自転車がすぐそばを通り過ぎる。助けてくれたのだろうか。そうなのかな。上から降ってきた「チッ」という思いきり不穏な舌打ちは聞こえなかったことにしよう…。
「ありがとう、ございます」
「うん。あのチャリはあとでシメる」
やっぱチンピラじゃないのこのひと…。まぁいいか。助けてくれたみたいだし。
何故か離されず、抱き寄せられた体勢のまま、ふと気になったことを口にしてみた。
「おばあさん、元気ですか」
「まぁまぁね。また今度会いに来てよ」
「でも、俺大したことしてないのにそこまでは」
「したんだよなぁ」
「俺は…誰でもできることしか、してないのに」
「誰でもできることを、できるひとは少ないんだよ」
パッと顔を上げると、やっぱりサングラスはなかった。あった方が良かったと思う。このきらきらした瞳を直に見るにはちょっと、俺には眩しすぎるから。
今日も曇りで、午後からは雨の予報だ。なのにここだけ真夏の太陽みたい。きらきらと煩いくらい眩しい。似合わないだろうけどサングラスが必要なのは俺の方だ。
かっちりしたスーツもいいけれど俺はまた、早くもあのガラの悪いチンピラみたいな彼にも会いたいだなんて思ってしまった。
変なの。たった数分程度の非日常が恋しくなるだなんて。
だけど非日常だったはずの彼は今は日常の雑踏の中にいて、俺の手を引いて微笑んだ。
「そんじゃ行こっか」
「あれ、方向一緒なんですか」
「うん、同じ会社」
「え、」
「今日から異動ー」
「えっ!?」
「とりあえず休日はゆっくり会えるよう、色々変えてかなきゃなぁ」
「えぇっと?」
「てか、また寝不足?なぁんも理解できてない顔かわいー…あ、上司が言ったらセクハラか?」
「じょうし…???」
もう何も分からない。分からないまま手を引いて会社に連れてかれて、何かすごいひとみたいに彼が紹介されてるのをぼうっと見て、やっぱりよく分からないままにあれよあれよとその日は終わって、なのに帰りのバスも一緒になって。平日はほぼ毎日定時で帰れるようになり、休日出勤なんてのもそのうちほとんどなくなった。
そうして「クマ薄くなったね」と嬉しそうに触れてくる指先に遠慮がなくなって、気づいたら休日どころか平日も、昼も夜も一緒にいるようになるのはまだ先のお話。
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