第1話「立ち往生とニアミス」

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第1話「立ち往生とニアミス」

 丘陵を拓いた広大な農地を、大きな耕運機が耕している。  白い蒸気が噴き上がり、一定のリズムを奏でながら車輪を動かす。試作品の蒸気駆動二輪車の安定性はいまひとつ。車軸やサスペンションに改良の余地あり、と言ったところか。  あれも動力となっているのは力強い蒸気と歯車の力だ。蒸気機関がこの国で産声を上げて半世紀ほど。緑輝石によって動力革命が起こり、もはや機械は人々の生活に欠かせないものになっている。科学の発展は目覚ましく、きっと十年後には世界が蒸気に包まれていることだろう。 「やばいやばいやばい! 完全に時間を忘れてた!」  ――なんて現実逃避をしている暇は、今の私にはない。なんとかバランスをとって転倒だけは避けながら、丘を勢いよく駆け下りていく。いつものように屋敷を抜け出して町の工房に入り浸っていたら、今日は予定があったことをすっかり忘れていた。大事な来客とやらで、遅れたら流石に怒られる。  私はあまり実感がないけれど、古臭い貴族というものは面子が何よりも大事だ。こんなことでは、大目玉どころの騒ぎではない。 「あれ?」  急いで家へと向かう道すがら、こんな時に限っていつもは見ないものを見つけてしまう。舗装されていない道の、昨日降った雨のぬかるみに蒸気自動車がはまっているのだ。今はそれに構っている暇なんてないのに、見たこともない型の車両につい足を止めてしまう。  綺麗に磨かれた黒い車体は丸みを帯びた可愛らしいデザインだけど、蒸気機関の収まる前部はゴツゴツとしていて重たそう。ぬかるみに右後輪がどっぷりと浸かっている。  とはいえ、車輪の大きさから見て、問題なく抜け出せそうだけど……。 「おお、君! ちょっと手伝ってくれないか」 「君? あ、私ですか?」  車の陰に隠れて見えなかった人がいた。のっそりと立ち上がったのは、丸い熊のような、どこか愛嬌も感じさせるフォルムのおじさんだった。たぶん、この車の運転手なんだろう。手袋を汚して、膝も泥だらけだ。 「車輪がはまってしまってね。後ろから押してくれないか」 「いいですけど……。もしかして、蒸気機関の調子が悪いんじゃないですか?」 「うん? そういえば、ちょっと出力は落ちている気がするが……」  どうやらこのおじさんは機械に詳しいというわけではないらしい。私は二輪車から降りて、車の詳しい様子を確認する。 「この車、見たことない型……。たぶん新型ですよね。この大きさの蒸気機関(エンジン)ならこの程度すぐに抜け出せますよ」 「でも、なかなか動かなくてね。もう30分も立ち往生してるんだよ」  おじさんは困ったように眉を寄せて、チラチラと車内を確認する。高級そうな車、もしかしたらオーダーメイドかもしれない。となると、中に乗せているのはやんごとなき身分の人かもしれない。  あいにく、車窓には厚手のカーテンが下されていて中の様子は見えないけど。 「ボンネットの中を見ても?」 「君、機械が分かるのかい?」 「趣味程度ですけど。あの二輪車は私が作ったんです」  路傍に倒している二輪車は、廃材を拾って工房の親方から教わりながら自分で一から組み立てた。一応の完成を見たあともちょこちょこと改造を続けてきて、今では市販のものよりもよっぽど出力もあると自負している。 「おお、若いのにすごいじゃないか」  まだ解決したわけでもないのにニコニコと笑うおじさんを意識の外に追いやってボンネットを開く。中にこもっていた熱気が蒸気と一緒に溢れて、一時周囲を埋め尽くす。それが晴れると、複雑に入り組んだ真鍮製のパイプや歯車がすっきりと収まった綺麗なエンジンが現れる。  惚れ惚れするような配置だ。全てが全く無駄なくあるべき所に収まっている。これぞ究極の機能美。まさしく、機械の芸術というべきもの。これを作った職人はかなりの名うてだろう。  私はズボンの裾に突っ込んでいた作業用の手袋を嵌めて、そっと触る。革越しにもじんわりと熱い。どこか循環がうまくいっていないらしい。ロッドを立てて身を乗り出し、本格的に中を見る。 「だ、大丈夫かい?」  小柄な私では頭ごと突っ込まないと奥まで見えない。外から見ると、車に食べられてしまっているように見えるようで、おじさんの心配そうな声がした。「はーい」と軽く返事を返す。申し訳ないけど、いちいち話している暇はなさそうだ。  腰のベルトに吊っていたスパナを掴み、ジョイントを回す。機械油が少し乾いているけれど、これが原因というほどではない。むしろジョイント本体だ。 「これ、ひび割れてますね。ここから蒸気が逃げて、うまく圧力がかかってなかったんでしょう」 「うわぁ、本当だ。ちゃんと整備はしていたはずなんだが……」  薄く亀裂の入った金属部品を摘んで見せると、おじさんは大きく体を仰け反らせて驚く。機械部品の破損なんて良くあることだし、そこまで大袈裟に反応しなくても、と少し呆れてしまう。 「スペアの部品はありますか?」 「いやぁ、そういうのは積んでないね」  まあ、そういうものを積むほど用意周到なら、この程度すぐに修理してしまえるだろう。特に驚きはない。私は二輪車の座席を開いて、中から工具箱を取り出す。そこに、一通りの基本的な部品は揃えている。  基本的に蒸気機関の部品は規格化が進んでいる。型番さえ分かれば、こちらの手持ちでも十分に修理ができる。これもまた現代工学の賜物と言えるだろう。 「とりあえず応急処置だけしておきます。他の部品も疲労してる可能性はあるので、すぐに整備士に見せてください」 「あ、ああ。ありがとう」  ジョイントを絞め、パイプを繋ぐ。軽く周囲を点検して他に問題がないことを確認してからボンネットを閉じる。運転席に乗り込んだおじさんが、軽くクラクションを鳴らしてからエンジンを掛けた。  シャコシャコとシリンダーが動き出し、内部に蒸気が循環する。その規則的な音に、私は思わず高揚してしまう。これこそ新時代の音、人類の進歩の旋律だ。  ボフンッ、と大きな音と共に白い水蒸気を吐き出し、エンジンは軽快に動き出す。ぬかるみにはまっていたタイヤも、呆気なく抜け出した。 「ありがとう、助かったよ!」  運転席の窓から顔を出したおじさんが満面の笑みで手を振ってくる。 「こちらこそ、助けになれて良かったです!」 「君はきっと良い職人になるよ。頑張ってくれ、少年!」 「えっ?」  急いでいるのか、車は軽快に震えながらスピードを上げていく。取り残された私は、思わず頬を掻きながら立ち尽くす。 「やっぱり男だと思われてたのか……」  自分の体を見下ろせば、起伏の少ない体付き。しかも油汚れと煤にまみれた作業着とブーツとくれば、確かに少女と思われる方がおかしいかもしれない。我ながら、どこからどう見て工房の下働きをしている少年だ。 「一応、髪は綺麗にしてるんだけどなぁ」  帽子を外せば、しっかりと手入れをした焦茶色の髪が溢れ出る。少年にしては長い、背中まで届く髪だ。こればっかりはお母様も切ることを許してくれない。 「あっ、お母様!?」  そこでようやく思い出す。私も急いでいたのだ。時間は確認できないけれど、多分めちゃくちゃ遅れているはず。私は慌てて二輪車に飛び乗って、アクセル全開で道を駆け抜けていった。
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