第16話「ひとりじゃない」

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第16話「ひとりじゃない」

 ヴィクターと話をしてみよう。そう思い立ったはいいけれど、実際にはなかなか難しい。そもそも、私はほとんど彼と会うことすらないのだ。私が起きるより早く出かけてしまうし、帰ってくるのは夜遅くだ。リファに頼んだとしても、まず時間が取れない。  だからと言って、彼に無理やり時間を作ってもらうのも難しい。彼にとっても今は重要な時だろう。蒸気博覧会を目前に備え、そちらの用意にも奔走している。私とTSF社のどちらが大切かと問われたら、後者であることは自明のはずだ。  それに正直なところ、私にも余裕があるわけではない。蒸気二輪車を三輪車に改造するという方向で動き始めたはいいものの、フレームの形状や力の配分など考えることは多い。今も技術書を何冊も並べて見比べている。 「うーん……」 「どうしたんだ? 行き詰まってるみたいだが」 「うわああっ!?」  椅子の背中を預けて天井を見上げていると、ひょいと視界の端から濃い顔が飛び込んでくる。驚いて体勢を崩し、そのまま床に転がりそうになった寸前、がっしりとした太い腕が椅子を支えてくれた。  バクバクと暴れる心臓を深呼吸で落ち着かせながら、思わず恨みがましい目を向ける。 「な、なんですか突然。ノックくらいしてくれてもいいんじゃないですか、ゴルドー」 「ノックしたのに気付かなかったのはそっちだろう」  目を合わせると首の裏が痛くなるような高身長の偉丈夫。作業着の袖を折り曲げて太い腕をあらわにしたTSF社の主任技師、ゴルドーだ。彼は私を見下ろして、呆れたようにため息をつく。よく見てみると、その手には紙袋が握られていた。  ゴルドーは物が散乱するテーブルを一瞥しながら、その紙袋をこちらに突き出してくる。ほのかに油の香ばしい匂いがした。 「これは?」 「差し入れだ。ちょっと町に出てたもんでな」  生返事を返しながらそれを受け取り、恐る恐る中身を覗く。 「フィッシュ&チップスだ!」 「お貴族様の口には合わないか?」 「そんなわけないでしょ。油で揚げたお芋と魚なんて、誰が食べたって美味しいんだから」  そうとう露骨な表情をしていたのだろう。ゴルドーは呆れ顔のまま頷く。それを見た瞬間、私は首輪を外された犬のように勢いよく紙袋に手を突っ込んだ。 「ああ、油……お芋……」 「相変わらず貴族らしくないお嬢さんだなぁ」  さすがに少し冷めているけど、それでもまだサクサク感は残っている。たしかに実家のディナーで出てくるようなものではないけれど、工房に入り浸っているとたまにお爺ちゃんが買ってきてくれた思い出の味だ。ビネガーと塩が、疲れた身体に染み渡る。  一心不乱にムシャムシャと食べ、袋の中身が半分ほどまで目減りして、ようやく一息つく。というか芋を口に突っ込みすぎて咽せた。 「げほっ、ごほっ」 「そんなに急がなくたって誰も取らないって」 「そ、そういうんじゃ……」  すかさずガッシリした腕がテーブルの隅に置いてあったティーカップを持ってきてくれる。リファが淹れてくれた紅茶もすっかり冷めてしまったけれど、おかげで一気に飲み干して喉を通すことができた。  たっぷり時間をかけてようやく落ち着きを取り戻す。私としたことが、少々はしたなかったかしら。  今更取り繕っても遅いだろうけど、一応男性の目の前だ。口元くらい綺麗にしようと近くのハンカチを手に取る。 「おい、それウエスだぞ」 「おっと」  ダメだ、ハンカチひとつまともなものがない。煤と油で真っ黒になったウエスを投げると、見かねたゴルドーがハンカチを出してくれた。 「ゴルドーって案外……」 「なんだよ」 「おほほほ」  いや、貸してもらった手前、失礼なことを言うべきではないだろう。貴族令嬢として鍛えられた愛想笑いでその場を流す。  とりあえず状況も落ち着いたところで、ゴルドーは机の上を見る。 「何か詰まってるのか?」 「え? ああ、それはまあ、ちょっとだけ」  彼もTSFの主任技師を任せられるだけのことはある。私の拙い図面でも、一目見ただけである程度の状況は察したらしい。けれど、彼も多忙の身の上だろう。そんな彼に教えを乞うていいものか、と悩んでいると、不意に机上でペンが踊った。 「ここのギアは一回り大きくしたらいい。ここもデザインを考えるならコンパクトにした方がいいだろうが、とりあえず見てくれは二の次にしておけ」 「あ、えっ」  その図体とは裏腹に、太い指に抱えられたペンは流麗な文字を連ねる。丁寧で読みやすく、説明も簡潔だった。腕っぷしだけで主任技師になったわけではないらしい。 「って、いいの? 敵に塩を送るような真似して」  まさかアドバイスが貰えるとは思わず、困惑して変なことを口ばしる。すると、彫りの深い顔がこちらを向いた。下がり切った眉は呆れている証拠だ。 「敵も何も、あんたは若旦那の嫁さんだろ。競い合ってるわけでもない」 「そ、それはそうかもしれないけど……」  彼やヴィクターが進めているのは。TSFの社運を賭けた一大事業だ。それに比べれば、私の蒸気三輪車は子供の遊びのようだろう。それは理解しつつ、向こうから真顔で言われてしまったら少しむかっ腹も立つ。  けれど、そんな私の胸中を察してか、ゴルドーは更に続けた。 「あんたの発想は、俺たちにはないものだ。みんな手出しはしないが、期待はしてるんだぞ」 「えっ? そんな、まさか……」  ゴルドーたちはTSFの技師のなかでも間違いなく精鋭だ。そんな彼らが、私に期待を? にわかには信じられない。けれど、ゴルドーの表情は真面目そのものだ。 「とにかく、初歩的なところで詰まってる暇はないんだろ。何かあるなら、そこで何時間もかけて調べるより、隣まで来て聞けばいいだろ」  その言葉は私の肩の力を軽くした。  私はいつからか、この事業は自分だけで成し遂げなければならないと思っていたんじゃないか。そんなことは誰にも強制されていないのに。  目から鱗が落ちたように、世界が変わって見えた。 「あ、ありがとう……ございます」  思わずぺこりと頭を下げると、ゴルドーは露骨に嫌そうな顔をする。き、貴族令嬢が感謝を示しているというのに! ――彼がそういうのを求めるような性格ではないことは、なんとなく分かっているけれど。 「今度からはちょくちょく遊びに行くわ」 「遊びには来るなよ」 「言葉の綾に決まってるじゃない」  真面目なのかそうじゃないのか、よく分からない人だ。けれど、見た目ほど悪い人ではない。彼が追記した図面を見ていると、目の前に立ち塞がった壁が軽く崩れていくような気がした。 「ま、倒れない程度に頑張るんだな」  そういってゴルドーは去っていく。私はそれを見送りながら、早速作業を再開した。
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