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第14話「楽しい仕事」
若くしてTSF社の社長となったヴィクターは多忙を極める。屋敷の執務室で書類にサインを書くだけが仕事ではない。むしろ、屋敷の外へと赴いていることの方が圧倒的に多かった。
屋敷の敷地内にある工場は、蒸気機関における最重要物資である緑光石の製造を担っているが、それ以外の機体そのものは別の工場で作られている。それらの視察や工場長を筆頭とした幹部連中との会合なども必要な業務であるし、業界の人物との懇談なども行わなければならない。
更に言えば、シャーロットとの結婚によって貴族との繋がりも得られた。今後、上流階級とのより密接な繋がりを構築することも、彼にしかできない仕事のひとつだ。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「お前まで畏まるな。ただでさえ息苦しいんだ」
「へぇ。申し訳ございません」
夜もすっかり更けた頃、貴族の邸宅からヴィクターが現れる。屋敷の主人に見送られながら車に乗り込み、しっかりとドアを閉めたあとでようやく大きなため息を吐き出した。
本日の彼の業務は、とある貴族の大物との会食だ。領地に大きな鉱山を保有している有力者であり、そことの繋がりができればTSFにとって大きな追い風になることは間違いない。元々は庶民の出であるトリセンド家がその敷居を跨ぐことができたのは、ひとえにシャーロットの実家であるコルトファルト家のおかげだ。
「ご自宅へ向かいますか?」
「どこかに寄る気力もないさ」
自嘲気味に笑うヴィクターを乗せて、カブの運転で車は走り出す。
名目上は会食とはいえ、実際のところは商談だ。それも商人同士の素手で殴り合うようなさっぱりとしたものではない。迂遠な言い回しや愛想のいい表情の裏を推測しながら、常に二手三手先を読み合うような、息の詰まる席だった。
貴族とは皆こんな連中なのか、とヴィクターは目眩さえ覚えていた。シャーロットとの結婚により伝手を手繰り寄せることはできた。しかし、それを活かすも殺すも彼の手腕次第であることに違いはないのだ。
すでに数千人を社員として抱える大企業であるTSFのトップとして、彼の両肩には凄まじい重圧がのしかかっていた。
「よろしかったんですか? 今日は、奥様もご同伴のはずでしたでしょう」
狭い運転席に背中を丸めて収まったカブが、ミラー越しに後部座席を見やる。貴族からの誘いは、トリセンド夫妻に宛てたものだった。本来であればヴィクター単身ではなくシャーロットも連れてくるのが正式な形である。
しかしヴィクターは先方に非礼を詫びてまで、シャーロットを連れてこなかった。
「いいんだよ。彼女はあんまり、貴族らしくない貴族だ」
左右に流れる町の影を眺めながらヴィクターは答える。
彼はそもそも、今夜の会食の話さえシャーロットには伝えていない。彼女は歴史あるコルトファルト家の令嬢ではあるが、その実際は蒸気機関に夢中な少女だ。謀略の渦巻く息の詰まる場には巻き込みたくなかった。
「それに今は、試作品を作っているんだろう」
そんな一番楽しい時間を邪魔するわけにはいかない。とヴィクターは薄く笑みを浮かべる。そんな主人を見て、カブも思わず相好を崩す。疲労困憊の主人を乗せて、彼は屋敷に向かってハンドルを切った。
━━━━━
「今日もヴィクターはいないの?」
「ええ。朝早くカブさんと一緒にお出かけになりました」
「そっかぁ」
工房での改修作業は順調だ。パーツが上手く合わなくて、ゴルドーさんに頼み込んで新しいものを作ってもらうこともあるけれど、基本的には汎用部品でなんとかなりそうな算段もついている。
そろそろヴィクターにも見てもらいたいと思っているのだけど、どうにも予定が合わない。彼は毎朝私が起きるよりも早く出かけてしまうし、帰ってくるのも私が寝てしまった後なのだ。
「お嬢様、まずは朝食を」
「そうね。サンドウィッチ、頂くわ」
リファがキッチンから持ってきてくれた紙袋の中に、朝と昼のぶんの食事が入っている。今ではすっかり工房で食べながら作業することにも慣れてきて、リファからの小言も減ってきた。サンドウィッチは片手で食べられるのが便利なのよね。
ランチバッグを携えて工場へと向かうと、ちょうどマールたちも出勤してくる。近くの農村からとはいえ、朝早くて大変だろうと思ったけれど、むしろ朝には余裕があると言われた。農業を生業とする人たちの朝は驚くほど早い。
「おはよう、マール」
「おはようございます、奥様」
最近では彼女たちともかなり打ち解けてきた。挨拶も慣れてきて、向こうの緊張も解けたような気がする。
私はいつものように工房へ向かう前にはっと思い出してマールたちに声をかけた。
「みんな、今日からちょっと新しいことを頼みたいの。いいかしら?」
今までは工場に搬入された機械の調整や部品の整理なんかを頼んでいたけれど、それも大体終わりが見えてきた。彼女たち自身も機械の扱い方が少しずつ分かってきた頃合いだ。まだ本格的に機械を動かしてもらうのは怖いけれど、少しステップアップしてもいいだろうと思ったのだ。
「そろそろ試作機の改修も終わるから、それまでに試験場の整備をしてほしいのよ」
集まってきた仲間たちに頼みを伝える。
「試験場、ですか?」
「庭ならもうありますけど」
不思議そうにする彼女たちの視線の先には広い庭がある。障害物や植え込みのない土だけの土地で、二輪車を乗り回した場所でもある。確かに面積だけはかなりのものだけど、それだけでは不十分だった。
「ここに纏めてきたから後で確認してもらうとして、実際の使用を想定した環境を再現したいの」
二輪車もとい三輪車は、生活に根ざしたものにする。それが当初からの目標だ。
ただの広くて平らな庭で軽快に走れるだけでは意味がない。坂道やぬかるみ、曲がり道なんかも進めないといけないし、重たい荷物を載せて走ることも必要だ。そういった、いわば実戦を想定した試験環境が必要だった。
「ちょっと力仕事が多いんだけど……」
「なるほど。任せてくださいな」
「これくらい、洗濯よりも簡単でしょう?」
少し心配が過ぎったけれど、マールたちはそう言って軽やかに笑い飛ばす。やっぱり、彼女たちの存在はとても心強い。安心して仕事を頼むことができるという事実が、何よりもありがたかった。
「でも、あんまり無理しないでね。ちゃんと休憩は取ること。何かあったらすぐに言って」
「分かってますよ。奥様は心配性なんですから」
「これで怪我なんてされたら大変だもの」
ここでは私が彼女たちの体を預かっている。だからこそ、それなりの責任は負うつもりだった。
年下の娘にそんなことを言われるとは思わなかったのか、マールたちは一瞬きょとんとする。そしてすぐに、また大きな声で笑い始めた。
「土も触れないような生娘じゃないんですから!」
「十年前ならどうだったかしら」
「二十年前から同じでしょ」
「あははっ」
そんな彼女たちの姿を見ていると、すっと力が抜けていく。
思わず私まで釣られて笑ってしまっていると、アンリがそっと囁いた。
「奥様の方こそ、あまり無理しないでくださいね」
「え? わ、私?」
最初は冗談かと思ったけれど、アンリは真剣な表情だ。
「この指示書もわざわざ用意してくださったんですよね。ちゃんと寝ていらっしゃいますか?」
「アンリ……。あなた、優しいのね」
思わず愛おしくなって彼女の赤毛を撫でると、あわわっと可愛い声がする。
確かに指示書は寝る前に書いていたものだけど、今はそれすら楽しいのだ。だから心配はいらない。好きでやっていることだから。
「さ、仕事するよ!」
私の声で、マールたちも動き出す。私は工房へと入り、昨日ベッドの中で思い出した確認箇所から順に調べていった。
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