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第2話「実業家は知っている」
私の家、コルトファルト家は代々続く貴族の家系だ。かなり広大な土地を抱えて、そこで一年を通して様々な作物を生産している。そんなわけで、屋敷も町から少し離れた農地の中という少し変わったところに建てられていた。
裏門からこっそりと入り、蒸気駆動二輪車を置く。それからそろりそろりと足音を殺して裏口へ行こうとすると……。
「シャーロット!」
「ひぃっ」
雷のように鋭い声が頭の上に飛んできた。飛び上がって顔を上げると、ゴテゴテとしたレース飾りのついたドレスを身に纏った貴婦人――というか我がお母様が怒りの形相でそこに立っていた。
「こんな時間までどこにいたの! 今日は大切なお客様がいらっしゃるから、ちゃんと家にいなさいと言ったでしょう!」
「ご、ごめんなさい……」
時間に遅れてしまったのは事実。私は帽子を胸の前で押さえて、素直に謝る。
「まったく、こんなに日焼けして。お化粧もしないで出歩くなんて、コルトファルト家の娘として恥ずかしいとは思わないの?」
「でも、お父様は汗水流して働くのがコルトファルト家の伝統だって――」
「秋の収穫の話でしょう! そんな頬に油を塗り付けて遊んでいる人なんていませんでしたよ。まったく、あなたの姉は二人とも立派な令嬢となって嫁いで行ったというのに……」
また延々とお説教が始まりそうな気配を感じて、そそくさと屋敷の中へ入ろうとする。けれど、途中で物陰から伸びてきた腕にがっちりと掴まれてしまった。ぬらりと現れたのは、メイドのリファだ。
「げぇっ、リファ!」
「何を悲鳴を上げてるんですか、お嬢様! はやく泥を落として着替えてお化粧をしてください!」
「うわああっ!?」
私と同い年なのにすっかりメイドとして逞しくなってしまった彼女に引き摺られるようにして部屋を移動する。あっという間に服を脱がされ、汚れを拭われ、きついきついコルセットで捕縛された。
「ぐ、ぐるじい……」
「我慢してください。お嬢様も、身だしなみは我慢からです」
「ひぃっ」
ふわふわとしていて歩きにくいスカートに胸元の大きく開いたドレス。頭には重たい帽子。くるくると良く働くメイドのおかげで、あっという間に貴族令嬢の完成だ。そばかすの浮いた地黒の肌も白粉で塗り隠され、お目目もぱっちり。瞼が重くて眠たい顔になると、すぐにリファから叱責される。
「吐きそう」
「我慢してください。お客様はすでにお見えになっておりますよ」
「お客様って、一体なんなのよぉ」
お腹をギリギリと締め付ける圧迫感に顔を青くしていると、リファとお母様が揃って勢いよくこちらへ振り返った。その目はまるで調子の悪い蒸気機関を見る工房の爺ちゃんみたいだ。
「何度も説明したでしょう! いらっしゃっているのは、トリセンド家のご子息よ」
「トリセンド家!? なんでそんな大富豪が、うちに?」
「はぁ……。あなたとの縁談のためよ」
縁談。えんだん。なんだっけそれ。
ああ、結婚の約束ってことか。誰が? 私が? 誰と? トリセンド家のご子息と?
「なんで!?」
びっくり仰天とはこのことか。目と口を大きく開けて驚く私に、お母様とリファが揃って額を抑える。
「前々から話していたでしょう。あなたももう18歳。普通ならもうどこかの家に嫁いでいておかしくない年齢、というより、嫁ぎ遅れです」
「と、嫁ぎ遅れ……」
実の母親から真っ直ぐに言われると、なかなか衝撃も大きい。
たしかに今の私は機械いじりの方が好きで、のらりくらりとそういう話を躱していたけれど。私には優しい、というか甘いところのあるお父様も流石にこれ以上は助けてくれない。
「……そっか。うん、分かったわ」
歴史だけはある貴族の家に生まれたからには、覚悟していたことだ。むしろ、今まで待っていてくれた家族には感謝しなければならない。
けれど寂しくもある。いくらトリセンド家といえど、婦人となるからにはもう機械いじりもできない。まさか、こんな唐突に終わりが来るなんて。
「さあ、早く応接室へ。お父様が今必死になって時間を稼いでくれているのよ」
「うん」
落ち込んでいては仕方がない。私は腹を括り、応接室へと向かう。リファが静かに戸を叩き、来訪を告げる。すぐに扉が開き、私は応接室のソファに腰掛ける客の姿を見た。
「えっ」
ソファに座る、丸みを帯びた熊のようなフォルムの大柄な男性。年齢は、私より一回りも離れている気がする。朗らかな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
思わず溢れそうになった声を、慌てて堪える。
彼は、私がつい先ほど助けた車のおじさんだ。この人がトリセンド家の――?
「初めまして、シャーロット嬢。本日は遅れてしまい、申し訳ありません」
「えっ? えっ? あれ?」
熊顔のおじさんに眉を寄せそうになったその時、彼の陰からまた別の若い男性の声がした。そうだ、このおじさんは車の運転手だった。ということは、車に乗っていた主がいるはず。
「わ――」
おじさんが横へずれて、その姿が露わになる。
朝露のように輝く銀髪に、色白な肌。すらりとしたシルエット。涼しげな目元に、透き通るような青い瞳。まるで騎士物語の絵本から飛び出してきたかのような、幻想的な雰囲気を纏う男性。
一目で見て理解した。彼がトリセンド家――蒸気機関の発明と発展に大きく寄与した実業家一族のご子息であることを。
「ははぁ、さすがはコルトファルト家のご令嬢だ。透き通るような肌でいらっしゃる。いや、とてもお美しいですな!」
熊おじさんがニコニコと目を細めて賞賛の声をあげる。肌の白さは分厚く塗った白粉のものなんだけど。地肌はむしろ黒っぽいです、などとは口が裂けても言えない。というか大きな口を開けたら白粉が剥がれそうで怖い。
慎重に、できるだけお淑やかに見えるように、うふふと笑う。ちゃんとできているだろうか。
「しゃ、シャーロット・コルトファルトと申します。本日はとてもありがたいお話をいただき、まことに――」
緊張と驚きと恐怖、色々な感情を胸のうちに渦巻かせながら、なんとか舌を回す。背後に控えるリファがどんな顔をしているのか、怖くて振り返ることもできない。けれど、なんとか最低限の体裁は保てたはず。
トリセンド家のご子息は、ふわりと花のような微笑みを浮かべてこちらへ近づいてくる。
「ヴィクター・トリセンドと申します」
「え、あ、わ、わ」
彼の白磁のように美しい頬が近づく。
え、このままキスまで行っちゃうの!? お父様も見てるのに!? り、リファ、これであってるの!?
困惑のまま身を硬直させる私。ヴィクターの唇は私の頬を通り過ぎ、耳元で囁く。
「先ほどは助かったよ。まさか、こんなにすぐ会えるとは思わなかった」
「え゛っ」
思わず濁った声がでて、お母様の目が釣り上がる。
ヴィクターはまた爽やかな笑みを浮かべて、今度こそ私の手を取り、甲に軽く口づけをした。
「是非ともこの度の縁談、前向きに考えていただきたい」
相手は飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を進める実業家。こちらは歴史と領地だけはある貴族。話は私が硬直している間にとんとん拍子で進んでしまい、気がついた時には全てが終わっていた。
シャーロット・コルトファルト改め、シャーロット・トリセンド。私は助けた車の主の嫁になったのだ。
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