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第3話「実業家と令嬢の取引」
トリセンド家といえばこの王国で知らない者はまずいない。高効率の蒸気機関とそれを実現するための優れた技術を生み出し、世に蒸気の時代の幕開けを告げた立役者だ。王国の首都郊外に広大な敷地を所有し、そこにギザギザ屋根が特徴的な大工場をいくつも建てている。
トリセンド・スチーム・ファクトリー。TSF社の製品は蒸気機関の自動車から戦艦、さらには空飛ぶ飛行船まで。大規模でダイナミックで、そして何より美しい。
今、私がトランクと共に揺られている新型蒸気駆動自動車もまだ販売はしていない最新型というだけあって、洗練されたデザインだ。どおりでボンネットの中まで美しいわけだ。
「ありがとう、シャーロット。今回の縁談を受けてくれて、本当に嬉しいよ」
「はぁ……」
ふかふかの後部座席の隣に座るのは、旦那様となったトリセンド家の御曹司ヴィクター・トリセンド。さらさらとした銀髪を垂らし、サファイアのような瞳をこちらに向けている。その口元には、世の乙女が酔いしれる神秘的な笑みを浮かべている。
だからこそ、全くもって理解できない。
ヴィクター・トリセンドといえばこの王国でも屈指の大金持ちだ。言い寄る女性など平民から貴族までいくらでもいるだろうに。なぜ私なんかを選んだのか。
いや、現実的な話は理解している。ヴィクターはTSF社をより大きくするため貴族社会への伝手を求めていた。そして、私の家――コルトファルト家はトリセンド家から金銭的な支援を受ける代わりに、それを提供するのだ。
もとより貴族の令嬢に持ち込まれる縁談というのは打算や計画によるものだ。人脈が欲しいトリセンド家と財政的に苦しいコルトファルト家の利害が一致したならば、とんとん拍子で話は進む。
理解できないのは、私のような肌も浅黒くてそばかすが浮いていて、チビで平坦で、令嬢としても二流以下でしかない者を選んだのか、ということだ。貴族との伝手を手に入れるなら、別にコルトファルト家である必要はない。もっと淑女教育を受けた可愛いお嬢様がいくらでもいるはずだ。
「あの、ヴィクター様」
「よそよそしいのはやめてくれ。僕らは夫婦になるんだから」
「ええ……。じゃあ、旦那様」
言い換えると、ヴィクターはまだ少し不満げだったが、渋々許してくれた。
「どうして私を選んでくださったのですか? もっと綺麗でお淑やかな方はいくらでも……」
「君が良かった。いや、君でないと駄目だと思ったんだ」
「えっ」
あまりにもまっすぐな言葉に声が詰まる。青い瞳が、まっすぐに私を見ていた。
運転席に座りハンドルを握る熊おじさん――名前はカブというらしい――はミラー越しにこちらを覗き見たあと、ニコニコと笑って運転に戻った。どうやら助けてくれる気はないらしい。
「えっと、その……」
まさか、ヴィクターは変わった女性趣味なのだろうか。18歳にしては童顔なのがコンプレックスなのに、それがむしろ良い、とかそういうこと?
「シャーロット、君がこの車を直してくれたんだろう?」
「え゛っ。あ、はい」
やはり気付かれていた。道端でぬかるみにはまっていた車は、やはりヴィクターの乗っていたものだった。エンジンを簡単に直して応急処置を施していたところも、車内からしっかりと見られていた。
でも、次に家の応接室で会ったときは、私は作業着からドレスに着替えてお化粧もしていた。なのになぜ気付かれてしまったのか。それが分からない。
「君がボンネットに頭を突っ込んでエンジンを直した時、君しかいないと思ったんだ」
「うん?」
何やら雲行きが怪しくなってきた。
ヴィクターは私の容姿とか礼節とか、そういった点には一切触れていない。少年のように瞳を輝かせて、私の肩に手を置いて熱く語っているのは、私が車を修理した時の話ばかりだ。
「TSF社では今後、女性向けの商品も開発していきたいと思っている。けれど、恥ずかしいことに俺は機械についてはさっぱりでね。雇ってる職人も男ばかり。できれば、女性の目線から意見をくれる人が欲しいと思っていた。そんな時に君を見つけたんだ」
「と言うと?」
「シャーロット、君には工場を一つ任せたいと思う。そこで自由に製品開発を進めてほしい」
は?
何を言っているんだ、この青年は。
思わず口から飛び出そうになった暴言を、なんとか堪える。それでも驚きは表情に出てしまった。
女性が工房に入り浸るだけでも嫌な顔をする人が大半で、まだまだ蒸気機関は男のものという認識は深い。そんななかでヴィクターはあろうことか、女性向けの製品を作りたいと言う。
「たとえば、君が作ったという蒸気駆動二輪車。あれなんかは女性でも扱いやすいだろう。そもそも蒸気機関は人の労力を軽くして、仕事を助けるものだ。だったら、女性の方がその恩恵は遥かに大きいはずだろう?」
彼の青い瞳には、何が見えているのだろうか。
ヴィクターの言葉は不思議な説得力を帯びていて、つい頷きそうになってしまう。
「いや、それでも貴族の娘が工場長なんて!」
「嫌かい?」
「嫌……ではないですけど……」
否定はできない。
結婚すれば、機械いじりはもうできないと諦めていた。それなのに、彼は今後も自由に、むしろより積極的に機械を使っていいと言ってくれた。そこに魅力を感じる貴族令嬢は、自慢じゃないが私くらいなものだろう。
「俺は君に設備と環境を与える。君はそれを使って、新しい製品を作り、我が社に利益を与える。これは立派な取引だよ」
「取引、ですか」
爽やかで屈託のない笑みと共に放たれた言葉が、急に胸を締め付けた。
なるほど。実業家らしく彼の頭の中にあるのは損得勘定だけだ。この結婚も、貴族との伝手と私という存在を買うための取引に過ぎない。
――いや、それでいいのだ。私のような貴族らしくない女が役に立てるのは、ここしかない。
「分かりました。私はまだまだ未熟な身ではありますが、旦那様のお役に立てるよう、精一杯頑張ります」
「そうしてくれるとありがたいよ」
ヴィクターが手を差し出してくる。白く綺麗な細長い指だ。対する私は、節の目立つ黒い指。油や煤は落としたけれど、傷跡はまだ残っている。少し恥ずかしくなって手を引っ込めようとすると、彼の白い指が絡んできた。
「よろしく、シャーロット」
私と旦那様、二人の契約がここに成立した。
「ああ、もちろん。僕の奥さんとしてもよろしく頼むよ」
「えっ? ええっ!?」
当たり前のことのように付け加えられた言葉に思わず大きな声を出す。
そんな、まさか。
これはお母様がどこからか持ってきた縁談だ。社交界へのコネが欲しいトリセンド家と、お金が欲しいコルトファルト家。両家の利害が一致したことによる契約結婚。私はそれを覚悟していた。貴族の娘として生まれたからには、何よりも血縁が大事な世界で、見知らぬ家へ嫁ぐことになることは覚悟していた。
それなのに、彼は私の顔を覗き込んで笑っている。
「当然だろ。俺は君の、その黒い瞳に惚れたんだ」
「えっ」
言葉の意味を聞き返そうとしたその時、カブさんが運転する車が急に止まる。ヴィクターは滑らかな動きで外に出て、私に手を差し伸べる。
「さあ、ここが今日から君の家だよ」
広々としたポーチに停まった車から外に出る。広大な庭園は隅々まで手入れされ、色とりどりの季節の花が咲き乱れている。
だが、何よりも目を奪われるのは、コルトファルト家よりも遥かに大きくて立派な、トリセンド家の大豪邸だった。
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