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燭光8-⑵
「お待たせしました」
流介が花瓶の美しさに見とれていると突然、聞き覚えのある声がして『伯爵夫人』が姿を現した。
「突然、押しかけてすみません。実は知人がふさぎの虫に取りつかれまして、何か良い薬湯でもない物かとお知恵を借りに参上いたしました」
「あら、それはお気の毒ですわね。気持ちを落ち着かせるにはそう……柴胡などがよろしいかしら」
『伯爵夫人』は壁際にある薬棚の前に移動すると、小さな引き出しをあらためはじめた。
「三つほど効きそうな材料を見繕いましたので、よろしければ薬湯にして差し上げましょう」
「これはありがたい。お礼の方はおっしゃる金額を用意させて頂きます」
「そうですわね……わざわざ来ていただいたのだし、今回は特別にただで差し上げますわ。ところで、お友達の方はよほどあの花瓶が気に入ってらっしゃるようですわね」
流介は『伯爵夫人』の視線が自分に向けられた事に気づき、身体が強張るのを感じた。
「ああ、彼は西欧の美術品に目が無くて、珍しい物を見ると貼りついたきり動かなくなるのです」
「そうでしたの。あの花瓶は仏蘭西のエミール・ガレと言う新進工芸作家の物なのです。……今、奥の部屋で薬湯を作る準備をしてきますから少々、お待ちになって」
『伯爵夫人』が別室に消えると、流介は首を天馬の方に向け「おい天馬君、いつまで美術愛好家を演じていればいいんだい」と不平をぶつけた。
「もう少し待ってください。夫人が戻ってきた時が恐らく最後の一幕の始まりです」
天馬に宥められ流介が仕方なく再び花瓶に目を戻すと、扉の開く音と共に夫人の「薬湯は今、作らせておりますので、それまでこちらを楽しんでくださいな」と言う声が聞こえた。
「ほう、良い香りですね。香ですか」
「ええ、夫が良く嗜んでいた香りです。燭台の炎を見ながらこの香りに包まれていると、椅子に座ったまま時を超えて旅をできるのだと言っていました」
「なるほど、何となくわかる気がします」
――天馬君、長話はいいから早く合図をくれないか。ガレだか誰だかよく知らないが、いいかげん花瓶と向き合うのも限界だぞ。
流介が天馬のそれらしい動きを読み取ろうとした、その時だった。夫人の「お判りいただけて嬉しいわ、水守天馬さん」という言葉が聞こえた。
――えっ?
「ご存じでしたか。この前は名乗らずに失礼いたしました」
天馬の落ち着き払った態度に流介が驚き振り返ると、夫人が微笑みながら火の灯った燭台を天馬に向けているのが見えた。
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