燭光1-⑵

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ

燭光1-⑵

「ああ、今日も何ひとついい考えが浮かぬまま、家の近くまで戻って来てしまった……」  流介が弥生坂を下りたあたりの道でぼやいていると、遠くで何かが動く音が地面を介して伝わってきた。 「…あっ……飛田さんじゃっ……」  突然、切羽詰まったような声が耳に飛び込んで来たかと思うと、右手から一台の自転車が現れ土埃を巻きあげながら流介の前で止まった。 「……ととっ、えいっ」  掛け声とともに自転車から飛び降りた人影を見た瞬間、流介は思わず「えっ?」と声を上げていた。 「安奈……君?」 「あら、飛田さん」  スカートの裾を払いながらそう言ったのは酒屋の看板娘、安奈だった。 「やあこんにちは飛田さん。いつも面白いところで会いますね」  土埃にまみれながら自転車を押してきたのは安奈の許嫁にして美貌の船頭、水守天馬だった。 「天馬君も一緒か。……まさか君たち、一台の自転車に二人で乗ってきたのではあるまいね」 「そのまさかですよ。二人乗りができるよう、特別にあつらえてもらった自転車です。今の所、怪我をせずに済んでいますがなかなか難しい乗り物です」 「乗ってるのが私じゃなかったら、とっくに怪我をしてるわよ天馬」 「厳しいなあ。……そうだ、今度は僕が乗せてもらうというのはどうかな。安奈の方が運転に向いているかも……おやっ?」  天馬が訝るような声を上げ、流介の後方に目をやったその直後だった。馬のいななきとがらがらという車輪の音が聞こえ、手綱のままならなくなった荷馬車が暴れ馬と共にこちらにやって来るのが見えた。 「いけない、安奈。止めよう」 「ええ」  二人は息を合わせると再び自転車に乗り、先回りをするように荷馬車の前を走り始めた。 「止まって―っ」  大きな音と共に前を通り過ぎた荷馬車の手綱を握っていたのはなんと、若い女性だった。 「大変だ、このままだとひっくり返るか立木にぶつかってしまう」  流介がはらはらしながら行方を見守っていると、先を行っていた天馬たちの自転車と荷馬車とがぴたりと寄り添うように並ぶのが見えた。 「……天馬君?」  二つの影を固唾を飲んで見ていると突然、安奈が自転車の上に立ってひょいと隣の荷馬車に飛び移るのが見えた。 「うわっ、なんて無茶を!」  流介は天馬たちの振る舞いに仰天すると、矢も楯もたまらず駆けだした。馬に人間が追いけるはずもないのだが、じっとしていられなかったのだ。すると次の瞬間、「ぱん」と言う乾いた音が二度ほど響き、走り去る馬と横倒しになる荷台の様子とが続けざまに見えた。 「――安奈君!」  流介が息を切らせながらどうにか荷台の手前までたどり着くと、無事だったらしい安奈が荷馬車の手綱を握っていた女性の汚れを払っている様子が見えた。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!