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曙光9-⑴
「本当にその『なんとか館』に行けば、この頭のもやもやがすっきりと晴れるんでしょうか」
からりと晴れた海沿いの道を歩いているにもかかわらず、和久間の表情はどんよりとしたままだった。
「まあ天馬君が言うのだから大丈夫でしょう。あなたに取り憑いているのが『木乃伊の呪い』なら、天馬君の口上はさしづめ「言葉の煎じ薬」みたいなものです」
「はあ……」
うかない顔の和久間を促しつつ港に来た流介は「あれですよ、世にも珍しい港に浮かぶ船『幻洋館』は」と言った。
「なんだこれは……」
芸術家の魂に触れる何かがあったのか、和久間は天馬の「家」を一目見た途端、目が覚めたように背筋をぴんと伸ばした。
「うん?今日は窓にカーテンがかかっているな。しかも暗幕のような真っ黒な緞帳だ。何か企んでいるのかな」
まあいいか、と流介は「玄関」の前に和久間と立つと「言われた通り出向いてきたよ天馬君」と窓に向かって叫んだ。するといつもは「やあ飛田さん」と呑気な声が返ってくるところをなぜか扉が開き、昼間だと言うのに黒い服に身を包んだ天馬が「ようこそお待ちしていました」と仰々しい口調で出迎えた。
「言われたように和久間さんをお連れしたよ。後はまかせていいのだね?」
「はい、ご苦労様でした。ではこちらへどうぞ」
天馬に言われるまま奥へ進むと驚いたことに一階ホールの窓も黒いカーテンで目隠しがされていた。日差しを遮断した「館」は、蝋燭の炎が照らす古城めいた場所に変わっていた。
「二階へどうぞ。階段を踏み外さないよう気をつけて下さい」
怯えたような表情の和久間を流介が上の階へと誘うと、天馬の書斎である二階も黒いカーテンで外の光を遮られていた。
「それでは早速、和久間さんに取り憑いた『伯爵の呪縛』を祓う儀式に取り掛かりましょう。この椅子に座ってお待ちください」
天馬はそう言うと蝋燭が一本立った燭台を手にしたまま、机の上から何かを取り上げた。
「これは和久間さん、あなたが魔力を持っていると信じていた物――実在しない人物の一部です」
天馬はそう言うと、手にした物体の先端に燭台の炎を移した。
「――あっ」
「どうですか和久間さん」
天馬が掲げたのは、『伯爵の手』に小さな蝋燭を立てて火を灯した燭台だった。
「これは盗人だった『伯爵夫人』が縁起をかつぐためにこしらえた「手首の燭台」です。呪物などではないのです」
「盗人の縁起かつぎ……?」
「はい。これにはそもそも『三つの願い』や『呪い』などという禍々しい逸話はないのです。火が消えればありふれた木乃伊の手首にすぎません」
「ああ……」
和久間が揺らめく炎に目を奪われている姿を見て、流介ははっとした。和久間の目からどんよりとした濁りが消え、澄んだ絵描きの瞳に変わっていたのだ。
「さあ、これでおしまいです。この燭台の炎を吹き消して下さい。それであなたは『伯爵』の呪いから解き放たれます」
天馬の口上に導かれるように和久間が「ふう」と燭台の火を消すと、あたりが一瞬で闇に包まれた。
「ああ暗い……何も見えない」
一面の闇に狼狽える和久間に、天馬は「では闇を払ってあげます。いち、にの……さん!」と言って窓のカーテンを引いた。
「――うっ」
窓から流れ込んできた陽射しに和久間は一瞬目を覆ったが、すぐ元の表情に戻ると「海だ……」と呟いた。
「これが本来の昼間の景色です。もうこれであなたを閉じ込める者はいなくなりました。どこへでも好きなところへ行って絵を描くことができますよ」
「世界は……こんなにも鮮やかだったのか」
和久間はぽつりと漏らすと、初めて海を見た子供のように目を輝かせた。
「これで木乃伊との対話は終わりです。のんびりお茶でも頂いて解散しましょう」
天馬は書斎の中央にある舵輪に手をかけると「和久間さん、何か描きたい物は?」と尋ねた。
「そうですね……さしあたってはこの船を描いてみたいです。ここからの風景が最も興味をそそられます」
「ほほう、そうですか。僕に言わせればいたってありふれた風景ですが」
闇を払ってみせた「探偵」は舵輪をくるりと回すと、「どうぞ存分にお描きください。このアトリエは沈んだり座礁したりしませんので」と言った。
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