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ガタン、という音で目が覚めた。
気が付けば隣の座席に置いていた旅行バッグが通路側に倒れている。
僕は慌てて上半身を乗り出し、旅行バッグを拾い上げた。
「どうも、すみません」
通路を挟んだ向こう側の席に座っていた老夫婦がニコヤカに会釈する。
とうに定年を過ぎたであろう熟年カップルの優しげな顔にホッとする。今度は倒れないように持ち手の部分をしっかり握って顔だけを窓に向けた。
窓の外からは、雄大な富士山の情景が見える。日本が世界に誇るビッグマウンテン。季節は初夏にも関わらず、その頂はまだ白い。
「ほう」とため息をついて、顔を前に向けた。
僕は今、シャトルバスに乗っている。
衣笠渓谷を抜け、いくつものカーブを超えながら長い長い登り坂を登って行く。
運転手さんは慣れているのか、軽快にバスを走らせている。この調子でいけば、すぐに目的地のみすず旅館にたどり着きそうだ。
みすず旅館は、知る人ぞ知る温泉旅館である。
本来は秘湯の部類であったが、地元の有力代議士が資金繰りをしたおかげで旅館が建ち、秘湯ツアーとして密かなブームを集めている。
“秘湯”というエキゾチックな雰囲気を保つため、マイカー規制が入りシャトルバスでしかいけない場所にあるのも人気の一つのようだ。
温泉好きの僕にとっては、是非とも行ってみたい場所のひとつだった。
とはいえ、深夜バイトあけのこの身体にはシャトルバスのガタゴトと大きく揺れる乗り心地は最悪である。
酔い止めの薬をあらかじめ飲んでおいて正解だった。おかげで、猛烈な睡魔に襲われていたわけだが。
乗客は、僕を含めて8人だった。
通路を挟んで隣側に老夫婦が2人。
前の方の席に大学生らしき女の子が3人。一人は背もたれをつかみながら後ろの座席の子たちと談笑している。
そして、そこから少し斜め前にラフな格好をした中年の男と20代くらいの若い男。関係性がまるで見えないが、仕事上の付き合いか何かのようだ。若いほうは、ぺこぺこと中年の男に頭を下げている。
ただでさえ小さなマイクロバスだが、平日ということもあってか、空席が目立つ。
それはそれでよかった。
こんな狭い空間に人がぎっしり押し込められていたら、息がつまりそうだ。
初夏のさわやかな日差しが窓に差し込む。
バスはいくつものカーブを通り抜けながら、ひたすら登りつづけて行った。
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