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バスが目的地に着いた頃、僕の眠気はすっかり飛んでいた。
最寄りの駅から30分。
多少なりとも睡眠をとったためか、身体が少し軽い。
プシューとドアが開くと、女の子たちがわいのわいのと騒ぎながら降りて行った。
続いて、中年の男と若い男。
僕も降りようかと立ち上がった時、老夫婦とタイミングが合ってしまった。
「どうぞ」と言おうとしたが、老婦人のほうが早かった。
「お先にどうぞ」
そう言ってニッコリ微笑む。
これは拒否するほうが失礼だと思い、僕は「ありがとうございます」と頭を下げて先に降りた。
同時に運転手さんにも礼を述べる。
サングラスをかけた年配の男性だった。彼は運転席から愛想よく手を振って送り出してくれた。
バスの外はすがすがしい空気だった。
高地、ということもあるのかもしれない。
抑圧されたバスの車内から一気に解放された僕は、とりあえず大きく深呼吸した。
新緑のにおいが鼻につく。
と、同時に都会では味わえないなんともいえない解放感が僕の心を刺激した。
僕のあとに降りた老夫婦が、記念撮影とばかりにふもとの景色をデジタルカメラにおさめはじめた。
山奥、というわりにはきれいに整備されていて、邪魔な木々は切り払われ、雄大な富士山とともに真下に広がる町並みを映し出している。
老夫婦は、カメラの撮影モードを合わせながら絶妙な撮影ポイントを探っていた。
もしかしたら、今ではお年寄りのほうがカメラの扱いが上手いのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕はみすず旅館へと入って行った。
みすず旅館は、建てられてから10年も経たない新しい旅館ではあるが、その雰囲気は老舗旅館を彷彿とさせるものだった。
黒い屋根瓦を敷き詰め、太い大きなヒノキの柱を組み合わせた、神社のような建物。
扉は自動扉で、高齢者にも優しいバリアフリーの玄関。
ロビーには大きな樹木がそのまま植えられており、まるでその樹を中心に建物が建てられたかのようだ。
大きなソファーとガラステーブルがそのまわりに置かれていて、見た目からして好印象だった。
バリアフリーの玄関の先、石床からフローリングへと変わる境目には、スリッパが置かれている。僕はスリッパを履いて靴をロッカーに入れると、フロントへまわった。
しかし、フロントには誰もいなかった。
カウンター前には先に降りた3人組の女の子たちと2人の男がいる。
彼女たちは、フロントの奥に声をかけながら顔を見合わせていた。
「あのー、すいませーん!」
はっきりと大きな声で叫びながらカウンターに身を乗り出している。
しかし、奥からは誰も出てこない。
「なんで誰もいないの?」
「ちょっとー、誰かー。いませんかー」
女の子の声が無情にも響き渡る。
もしかしたら、予定時間よりも早く着きすぎてしまったのかもしれない。
僕はそう思った。
バスはスピードがかなり出ていた。
速度制限を大幅にオーバーしていた感すらある。
とはいえ、そんなことは僕らには関係ないことで、客を待たせる不手際に女の子たちは次第に嫌悪感をあらわにしていった。
「シカトかよ」
そう言って、あきらめたかのように荷物を床に置く。
「とりあえず誰か来るまで待ちましょうか?」
若い男が中年の男の顔色をうかがいながら尋ねた。
「そうだな。仕方あるまい」
中年の男はそう言うと、ソファーに座りガラステーブルの上に置かれた雑誌に手を伸ばした。
若い男もホッと胸をなでおろしながらそれにならう。
僕は手持無沙汰になりながら、壁掛け時計を眺めつつ、従業員が来るのを待つことにした。
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