ラストプログレス ~最後のひと伸び~

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 引退を発表してから数日後、延岡がラストプログレスにやって来た。  延岡は無表情だった。喜び、怒り、悲しみ……そういった感情は一切見られなかった。  店に入るとそのままカウンターに座り、レーツェルに酒を注文する。  レーツェルは延岡の前にグラスを置き、延岡を見る。 「なぜ、引退を? 記録も出してこれからというときに」  延岡は黙ったままグラスに注がれた酒をゆっくり飲んでいる。  グラスが空になると、レーツェルを見て口を開く。 「結局あの薬は何だったんですか。新しいドーピング剤なんですか。検査に引っかからないような。それともあれは、ひと伸びする薬でも何でもなかったんですか」 「さあ」  レーツェルがさらっと答える。 「そうですか……」  延岡はそれ以上は何も聞かなかった。 「あなたはあの薬を飲んで記録を出した。注目される選手にもなった。それなのにあなたは、その後走ることもなく引退してしまった。これからというときになぜ引退したの?」  延岡はグラスの酒をひと口飲む。 「あのときは、あの錠剤を飲んで、記録を出して大会で優勝したときは……本当にうれしかった。これまでの人生で最高の気分だった」  そう言って、遠くを見ながら微笑む。 「でも……数日したらその幸せな気分は全部なくなってしまった。いや、むしろ辛くなってきった」 「辛くなった? どうして?」 「俺が記録を出せたのは、実力ではなく薬の力だったのかと。いや、そんなはずはない。あの薬は関係ない、あれは俺の実力だ。でも、……その問答を何度も繰り返す毎日だった」  延岡が力なく笑みを浮かべる。 「とうとう毎日それが頭から離れなくなってしまった。どうしようもなかった。優勝したのは薬のおかげじゃない、実力だ……何度もそう思おうとしたけど、ダメだった。そして……もう疲れました」 「それで引退したということ?」 「はい。こんな形で終わるのは残念だけど、もうすべて終わりにすることに……引退することにしました」 「そう。でも、残念という割には、あまり悔しそうな顔はしてないわね」 「ええ。これでようやくあきらめることができる。あとひと伸びあれば……なんて毎日考えなくてすむ。そう考えると、気が楽になりました」  延岡はグラスに入った酒を飲み干すと、そのまま店を出て行った。
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