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「ひと伸びできるようにしてあげましょうか?」
それまで延岡の話を聞きながら相槌を打っていただけのレーツェルが、口を開いた。
「えっ……」
延岡が思わず顔を上げる。
「今何て言った?」
「最後のひと伸びをできるようにしてあげましょうか、と言っているんです」
レーツェルは涼しい顔をしたままで答える。
「君は何を言っているんだ。そんなことできると思うのか?」
「もちろん」
延岡が「話にならない」という顔で首を振る。
「俺があれだけ一生懸命トレーニングをしてもダメだったんだ。ひと伸びはできなかったんだ。9秒台は出せなかったんだ。それなのに、どうして君なんかができるんだ。変ななぐさめはやめてくれ」
「どうして私があなたをなぐさめなくちゃならないの。私はひと伸びさせることができるからそう言っているだけよ」
「何だと?」
延岡はあきれてため息をつく。
「じゃあ、一応聞いてやるが、どうやってひと伸びしようというんだ?」
レーツェルは何も言わずに後ろにある棚から何かを取り出し、それを延岡の前に置く。
「これは……」
それは何かの薬、錠剤のようだった。
「まさか、これを飲めばひと伸びできる、タイムが速くなる、とでも言うんじゃないだろうな」
「ええ、その通りよ」
「こんなものを飲むだけでひと伸びできるなんてありえない。まさか、ドーピング剤とかじゃないだろうな。もしそうだとしたら、ひと伸びするどころか、俺は陸上界を追放されてしまう」
「まさか。そんな訳ないでしょ」
「そうじゃないとしても、こんな得体の知れないものを飲むわけにはいかない。俺が毎日どれだけ口にするものに気を遣っていると思ってるんだ」
そう言って、延岡は目の前に置かれた錠剤をレーツェルのほうに突き返す。
そして、再びぶつぶつと愚痴を言い始める。
それから数分後……、
「じゃあ、そうやっていつまでも愚痴っていればいいわ」
レーツェルの冷たい視線と言葉が延岡に突き刺さる。
「何だと?」
その言葉にカチンときた延岡が、レーツェルを睨むように見る。
「何の行動もせずにひと伸びできると思うのなら、いつまでもここで愚痴っていればいいって言っただけよ」
「貴様……」
「本気で最後のひと伸びがしたい、それによって人生を変えたい、と思っているのなら、覚悟を決めなければならない」
「覚悟……」
「何のリスクも取らずにひと伸びなんてできるわけがない。そうでしょ? 覚悟を決めるしかないのよ。やるのか、やらないのか」
「……」
「別に今すぐにここで飲む必要はないわ。じっくり考えてみることね」
「……」
延岡はレーツェルの言葉には何も答えずに、黙って錠剤を受け取ると、そのまま店を出て行った。
レーツェルは微笑みながら彼の後ろ姿を見ていた。
「さて、彼はどうするのか。そして、どうなるのか……」
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